みんなで楽しもう・上手くなろう・強くなろう!
リトルビクトリーズ の「リトルV(ブイ)ログ」
「日野ビクトリーズ」の低学年チーム、リトルビクトリーズの活動ブログです。小学1年から3年、あるいは幼稚園年長の選手たちが野球を楽しみながら技術の上達、心身の成長に取り組んでいます。
東京都の西に位置する日野市は、豊かな自然に恵まれた町です。都心からのアクセスも便がよく、JR中央線では日野、豊田駅、京王線では百草園、高幡不動、南平、平山城址公園駅などが日野市に位置しています。練習試合のお申し出、練習見学、体験など歓迎しています。
03:「ビクトリーズ親子野球大会をやりました!」
2024.12.07 豊田児童グラウンドにて
こんにちは! あんなに暑かった夏がウソのように、秋が過ぎて、冬になって、気がつけば2024年ももう終わりなんですね(さみしい…)。ビクトリーズは今年も一年間がんばってきて、最高学年の6年生も来週の練習で卒業となります。
ということで、今週はお父さんお母さんもいっしょになって野球を楽しむ「ビクトリーズ親子野球大会」をおこないました。ふだんは練習を手伝ってくれたり、試合では応援してくれたり、かげでささえてくれているお父さん、お母さん。選手の僕たちは毎週コツコツ練習してきているけど、お父さんお母さんの腕前はどうかな? 僕たちに勝てるかな?
いつもの試合のように、まずは両チームがホームベースをはさんで、あいさつから始めました。「これからビクトリーズ対お父さんお母さんチームの試合を始めます。両チーム、礼!」。いつもは大人の人が審判をやって、あいさつの号令をかけるんだけど、今日の審判は僕たち選手。ちょっと緊張しちゃったな。
ボール・ストライクの判定って、意外とむずかしい。僕らはボールだと思って見送ったのに、「ストライク!」って言われて「え~?」と思うときもあったけど、審判さんはきちんと公平に見てくれていたんだね。あと、ホームベースについた土をブラシで払う作業だったり、ピッチャーが投球練習をして「あと何球」というサインを指で示したり、あの動作、一度やってみたかったんだよなぁ。審判の仕事もけっこうカッコいいよね。
いつもだったら、同じ小学生相手に投げるから、ストライクゾーンも小さいけど、今日は大人がバッターだから、ストライクゾーンも大きかった。意外と投げやすかったよね。
「よし! お前がお父さんに勝ったら、プレイステーション買ってやるぞ」
え~! そんな約束しちゃって、お父さん大丈夫? プレステに釣られたわけじゃないけれど、お父さんは大口たたいたわりには、あっけなく三塁ゴロ! 約束どおりプレステ買ってくれるよね?
次のバッターは…と。えっ、お母さんだ!(野球やったことあるの?)
「おいおい、お母さんが打てなかったら、今夜の晩ご飯、好きなもの作ってもらえないぞ~」
おじさん、ヘンな野次飛ばさないでくれる? 勝負は公平なんだから。あっ、でもお母さんけっこうやるじゃん! バットに当たったよ、しかもヒットだ。一塁でバンザイしているお母さん、うれしそうだったな。これも親孝行かな?
打順はけっこう、あってないようなもんで、自分の息子が打席に入ったら、ピッチャーがお父さんに代わったり、お母さんもマウンドにのぼったり打席に入ったり、けっこう自由。最後は時間切れのためにお母さんと対戦できなかったと、泣いていた子もいたけれど、特別に延長ということで対戦させてもらえて良かった良かった!
ビクトリーズ選手 Vs お父さんお母さん
高学年チーム対お父さんお母さんチームの試合は、最後にネット越えの逆転ホームランが飛び出すという幕切れだった。決して大きなお父さんじゃなかったけれど、力の抜けたキレイなスイングだった。ナイスタイミング、ナイススイング。ホームランは腕力だけじゃないんだね。お父さんお母さんも楽しめたし、子どもたちは親子対決を通して勉強になったことも多かったと思うよ。また、いっしょに野球やりたいね!
02:「ビクトリーズBが逆転勝利しました!」
2024.02.18 万願寺中央公園グラウンド少年軟式野球場にて
こんにちは!
2月に入って大雪が降ったり、春一番が吹いたり、それでも少しずつ春が近づいてきていますね。
日野市の少年野球では、南部リーグが始まりました。ビクトリーズのほか、3チームをまじえて総当たりのリーグ戦が行われます。
先週の第1節に続き、今日は第2節。ビクトリーズはAチーム、Bチームが南平アトムズとの試合に臨みました。相手はマクドナルド全国大会にも出たことのある強豪チームです。
新6年中心のAチームは残念ながら、アトムズAに敗れてしまい、新5年中心のBチームが第2試合に臨みました。新4年以下のリトルビクトリーズもメンバーに加わって、公式戦を経験しました。
試合は立ち上がりから、ビクトリーズBが2点リード。しかし、アトムズBもすぐに逆転。それでも1点差のまま迎えた3回オモテ、打線がつながり一気に3点を挙げて再逆転します。おたがいに点を重ねて迎えた最終回の守備。ここで、チームに勇気をもたらすビッグプレーが飛び出しました。
7ー5でワンアウト一塁、大きな打球がライトへ!
抜けたら一気に同点かー!? しかし、ライトのハル君が走りながら手を伸ばしてスーパーキャッチ!!!
勇気あるハル君の大ファインプレーがチームに勇気を与えました。最後のバッターは三振にとって試合終了! 見事な、見事な逆転勝利をつかみました。
川久保コーチは「ハルは昨年までボールが怖かった子なんです。それでも練習を重ねて少しずつ上手くなり成果が出て良かった!」と涙ぐんでヒーローのハル君をたたえました。他の選手たちも、みんな頑張ったね。
試合が終わって勝利の余韻をしばし味わって、でもすぐにホームグラウンドに戻って練習。今日の試合でわかった反省点を確認して、また次に勝てるよう、チームが心を1つにして解散。
小さな勝利、リトルビクトリー。ひとつひとつ積み重ねて大きなビクトリーにつなげよう。
01:「リトルビクトリーズが取材を受けました!」
2024.01.14 豊田児童グラウンドにて
こんにちは! 日野ビクトリーズ(小学4・5年)とリトルビクトリーズ(年長~小学3年)は今日もホームグラウンド、豊田児童グラウンドで上級生は試合、下級生は練習に取り組みました。
豊田児童グラウンドは、多摩川の支流「浅川」の河川敷。選手たちの通う豊田小学校からもすごく近くて、便利な場所にあって、いろいろなチームにも練習試合に来ていただいています。
今日は、なんと! 学童野球の専門誌で取材していたライターさんに、リトルビクトリーズの練習に来ていただきました。選手たちは少し緊張したけれど、いつもどおりに楽しく真剣に野球の練習に取り組みました。
春に小学校に入学する年長さんも、初めての野球に夢中になっていました。熊田コーチがフライの練習をしてくれました。
「まずはレベル1、ワンバウンドしたボールをキャッチできたら10点、次にレベル2。ワンバンのボールを走りながらキャッチできたら20点、そしてレベル3は、ノーバンでキャッチできたら30点だよ!」
さあ、いちばん得点をゲットしたのは誰だったのでしょうか?
今日は、川久保コーチに一塁ランナーのリードから、盗塁のスタートを切るやり方について教わりました。
「いい? ピッチャーが本塁に投げるほうに踏み出す足を上げたらけん制球はないから、二塁にスタートできるんだよ。でも、本塁に投げるほうの足が上がらなかったら、けん制が来るかもしれない。そうしたら、バックする。でないと、けん制に刺されちゃうから」
「あとは、二塁にスタートを切っても、バッターが打つところを走りながら見ることができたら、いいね。フライになったら、どうする? そうだね、ダブルプレーにならないように、止まって見て、戻ることもしなければならないよね」
練習には選手全員が集中していなければいけないけれど、注意しなければ、ボールがそれて当たってしまうことも。そうなることを防ぐためにも、川久保母コーチのように、ピッチャーと一塁ベースを結んだ延長線上からボールを見ていることも必要なんだ。取材に来てくれたライターさんが言っていました。
「写真を撮りながら、どこにボールがあって、どのように動くかを注意しているんだよ」
今日も、いろいろなことを教わって、勉強になったし、楽しかったね。
さあ、来週の日曜日には、今年初めての練習試合が待っている。頑張ろうね!
日野市の学童チーム出身者で、プロ野球選手も出ています。巨人に指名された佐々木俊輔選手、日本ハムの指名を受けた宮崎一樹選手。そして今年から横浜DeNAでプレーする佐々木千隼選手。佐々木俊輔選手と佐々木千隼選手の卒業した三沢中は、川久保正道コーチが以前に教えていた中学校でもあります。ビクトリーズからは、まだプロは輩出できていませんが…。
佐々木俊輔選手は、中学時代はシニアでしたが体育は3年間川久保コーチが受け持ったとのこと。「ドラフト当日も当時の担任に電話で報告するなどとても良い人柄ですので、ぜひ応援してやってください!」とのことでした。
【Vol.022】奈良監督・八王子四中 2010夏の出会い
仲間がいる、自分を信じろ。
2011年3月11日。忘れもしない東日本大震災で、帰宅困難となった僕は約7時間をかけて、川崎市多摩区の自宅を目指して、ひたすら歩いていた。すると、あとは多摩川を越えれば自宅圏内だというとき、東京・神奈川の県境にあたる登戸大橋の手前で二人の高校生と出会って、ラスト・ワンマイルの帰り道を共にすることになった。
そのうち一人の高校生は、八王子市まで帰ると言う。「あ、僕このへん、中学生のときに野球部の練習試合で来た覚えがあります」
八王子? 中学で野球部? 思わず僕は「どこの中学だったの?」と聞いていた。すると高校生は、すかさず「八王子四中です」と答えた。「じゃあ野球部の先生は?」と僕が続けざまに尋ねると「奈良俊光先生です!」。その高校生は、まさかのピンポイントの答えを返してきたのだった。
こんな偶然があるものだろうか。いや、ちょうど半年前に僕は、その奈良先生率いる八王子四中の取材のために、球場やグラウンドに通い詰めたのだ。
深夜にようやく自宅へと帰り着いた僕は、その興奮を抑えきれず、翌日には奈良先生にメールを出していた。すぐに奈良先生から返事が来た。「近藤さん、ありがとうございます! 彼は僕が新任のときの選手です」
初めての取材以来、その後に中学校を代わってからも、奈良先生とは都大会の運営・審判員として、ちょくちょく顔を合わせているし、他校の指導者も交えた交流も続いている。そして、この2021年12月。久しぶりに「近藤さんに、ウチの選手たちを見ていただきたい」と連絡をもらって、町田まで足を運んだ。僕自身、学校における取材も非常に久しぶりだったが、それ以上に久々にグラウンドで出会った奈良先生は、年齢こそ重ねたものの、ハツラツとした姿はなにも変わらなかった。
現在の中学校での活動については、別稿にゆずるとして、このコラムでは奈良俊光という指導者の魅力について書いてみたいと思う。
前述したように、奈良先生率いる八王子四中を取材したのは2010年8月。テーマは「キャプテンの育成」。都大会の開会式で同じく運営にたずさわっていた別の中学の先生による推薦だった。すかさず、その場にいた奈良先生に取材をお願いして、後日うかがうことにした。
グラウンドでの初対面は、八王子の北野球場での練習試合。僕は試合が終わるまで声をかけなかった。ひっそりと遠くから試合の様子をうかがっていたのだ。
あとで奈良先生に聞いた話によると、この取材を依頼されて、当時の主将とこんな会話をしたのだという。
「新田(主将)、じつは、こんな話があるんだけど、どう思う?」
「うーん、にわかには信じがたいかなと思いますね」
そして、練習試合のときに来ることを聞いていたが、試合が終わるまで姿を見せなかったので、新田主将は「やっぱり来ませんでしたね」と言ったのだが、奈良先生は笑いながら「そんなこともないよ。見てごらん」。ほら! と、指をさしたその先に、僕の姿が金網の向こうに見えたものだから、キャプテンは「あ……」と驚いたのだという。
野球の指導者は視野を広く保っているからなのか、遠くに知り合いがいても目ざとく見つけるものだと、僕は経験的に知っていたが、このときもそうだった。
そんなこともあって、グラウンドに入った僕は八王子四中の野球部員たちに改めて挨拶をした。
奈良流・野球部の組織作りのキーワードは「三本の矢」だった。すなわち、キャプテンを扇の要に、2人の副キャプテンがサポートする(それぞれ、グラウンド・チーフ、道具チーフと呼んでいる)。
「キャプテンが一人で仕事を抱えていては、あまりにも自分のプレーに集中できません。後輩に指示を出したり、時に監督から怒られたりもして、気の毒ですからね」
だからこそ、三本の矢が効を発揮する。仕事が分担されて、一人の負担が減るばかりか、助け合う精神が育つということだ。なお、三本の矢は一つ下の学年(2年。2年が最高学年の新チームでは、一つ下の1年)にも同時並行的に引き継がれる。後輩は先輩の背中を見ながら、スムーズに世代交代も出来るというわけなのだ。
こうした今までの野球界の常識(監督・主将が絶対で、指示・命令もトップダウン式)にとらわれない、奈良監督の発想はどこからきたのか?
「教員に受かる前の講師時代、夏休みに手伝った仕事で、Jリーグの組織体系を知ったことがきっかけです。下部組織がしっかりしているからこそ、トップチームも強くなれる。野球界のようにトップダウンだと、選手は社会人になったときに通用しません。じゃあ何が必要なのか? 観察力だ、解決する力だ、忍耐力もそうですね。すべてを兼ね備えている人間はいません。だから3人で足りない部分を補い合うことが必要だと思ったんです」
八王子四中の強みは「ベンチワーク」にある。スタメンの9人だけでなく、ベンチメンバー、ベンチにいても試合に出ることのない選手はもちろん、ベンチに入れない選手も含めてのベンチワークだという。全選手がそれぞれに出来ることを精いっぱいやって、試合に集中して勝つことを考えて行動するのだ。
実際に、野球部には主将・副主将以外にも、「ベンチワーク係」を置いている。また、壮行会などを仕切る「司会係」も重要な役割だ。自分が試合に出ることがなくても、試合に出場する選手たちを気持ちよく送り出すために盛り上げる。
奈良監督は自身のプレーヤー時代、試合に絡めなかった経験があるため、すべての選手に気を配り、それぞれに仕事を割り振って、係の名前が付かない選手でも自分が出来ることをやれるようにモチベーションを高めている。理想とする「全員野球」は、野球部内の選手だけでなく、試合になればスタンド・観客も含めての「全員野球」なのだという。「地域で応援してもらえるチームを目指します」。チームのコンセプトである『感動と衝撃と夢を与えるチームになる』も、そういう意味が込められているのだ。
『仲間がいる、自分を信じろ』という横断幕の言葉にもそれは表れている。じつに、いい言葉だと思う。
キャプテンに求められる力の一つに「全体を見渡し、解決する力をもっているか」というのがある。試合中、実際に選手同士が試合を見ながら、どうしたらいいか、こうしたらどうだろうか、と話し合うシーンを何度も目にした。もちろん、最初は監督が問題を投げかける。
「アウトカウントによって、走者がリードを取るラインがあるんだけど、どこが違うと思う?」
監督と選手たち、あるいは選手たち同士、練習中から積極的にコミュニケーションを取り合う。そんなことが当たり前に出来るチームは強くなれるし、見ていても楽しい。思わず応援したくなるものだ。
そういうわけで、僕は八王子四中の試合も見たくて、多摩大会の試合を追いかけた。彼らが見せてくれた「全員野球」が「感動と衝撃と夢」を与えてくれることは十分に身にしみて感じることができた。自分のつたない文章で表現するより、写真を見てもらえればわかると思うので、ぜひ見ていただきたい。写真から選手の声が聞こえてくるようだ。
※ 「八王子四中2010」のアルバムをGoogle Photoにて、無料公開しています。下記のボタンから、リクエストしてください。
一つの取材に5日もかけたのは、あとにも先にも八王子四中しかない。選手たちも、さぞ「また来てるよー」と笑っていたにちがいない。
ある試合の終了後、新田キャプテンに握手の手を差しのべると、彼も自然と右手を差し出してくれた。そして、勝利の余韻を二人で共有したことが今でも心に残っている。最初は来るのか来ないのか、よくわからなかった僕に対して、ようやく心を開いてくれたのかなと思う。
この新田キャプテンをはじめとする、八王子四中の選手たちは大人とコミュニケーションを取るのがとてもうまいと感じたことも、自分にとっては衝撃だった。ヘンに大人ぶるのでもなく、いい部分の中学生らしさは残したままで自然に接してくれた。ああ、奈良先生も望んでいた「社会に出ても通用する」人間に彼らは育ってくれたのだなあ。
取材の最後は、3年生の引退が決まって新チームに切り替わるタイミングの練習におじゃました。そこでビッグ・サプライズがあった。取材のお礼として、アディダスのスポーツタオルをいただいたのだ。感激した。このスポーツタオルは今でもピラティスに使っていますよ。そして、さらに奈良先生からの洗礼として、僕もノックに加わらせてもらった。体が動くかどうか不安だったが、なんとかゴロを処理できてホッとした。
まだまだ書きたいことは山ほどあるが、しょせんは過去の話なので、このへんで。奈良先生は常に「自分のチーム」に誇りを持っていて、過去はあまり振り返りたがらないのだ。でも、どの学校に行っても、“奈良イズム”は確実にチームに活力と成長力を注入してくれている。
そこで、次は、先日取材した現赴任校・町田市立南中学校の奈良俊光監督を「練習おじゃま日記」で紹介したいと思う。
【Vol.021】東16丁目フリッパーズがつないでくれる郷土愛
必ずまた会える
この夏、僕の心を故郷・北海道に呼び戻す出来事があった。その中心となった話題は4年前の北海道取材。東16丁目フリッパーズの笹谷武志監督にSNSメッセージで伝えたところ、
「そうだったんですね。(ということは)縁があるので、近藤さんにはまたお会い出来ますね!」と喜んでくれた。
「『球童くん』いつも楽しみに拝見させていただいております。近藤さんのお願いであれば、僕に出来ることは、何でもしますよ!」と言っていただいたので、今回は「コラム」と「練習おじゃま日記」の二本立てで、東16丁目フリッパーズのことを書いてみることにした。
誰でも同じだと思いますが、コロナ渦から1年半以上を過ぎて、この間に僕は取材はもちろん、なつかしい人たちに会いに行くことも、故郷・北海道に行くこともかなわずに過ごしている。その期間に亡くなった家族・親族もいたが、遠く離れた地という事情もあり、お悔やみを直接伝えに行くこともできなかった。
母の妹の夫だった人の突然の訃報を耳にしたのが、7月の上旬だった。当然行くことはできないので、せめてもの気持ちとして些少の香典・御花代を送ってあげた。すると、叔父の娘(いとこ)からお礼の電話をもらった。話すのは数十年ぶりだった。僕は高校を卒業して北海道を離れて以来、故郷を訪れる機会は仕事がらみばかり。なつかしい友人や親戚と会って、旧交を温める余裕はもてなかった。
しかし、奇しくも故人がその縁を結びなおしてくれた。
「ここ、ウチのすぐ近くの公園だよ。えー! お兄ちゃん、取材で来ていたんだよね。昨日も少年野球でにぎわっていたよ」
メールで送ってあげた写真を目にして、いとこ(妹みたいな存在で、今や二児の母)がビックリしていた。彼女の自宅近くの公園とは、札幌市の東区にある「元村公園」。この元村公園に僕は4年前の2017年11月、全日本学童で優勝したばかりの「東16丁目フリッパーズ」を取材するために訪れた(このとき、彼女の家が近くだということはまだ知らない)。
雄大な大地、壮大な自然、おおらかな風土と人間性。でっかいどぉー、北海道(古いか…)。昔から野球人気・野球熱は高くファンも多い。北海道日本ハムファイターズもあっという間に根雪のごとく根付いた。高校野球では長く弱小と呼ばれたものの、2004・05年に夏の甲子園を連覇した駒大苫小牧がジンクスを破った。
かたや、小学生の甲子園・全日本学童軟式野球大会(マクドナルド・トーナメント)では、白老緑丘ファイターズの4強が最高だったが、それも2017年、とうとうジンクスが破られた。東16丁目フリッパーズ。北あるいは南○条、東あるいは西◎丁目という、北海道開拓時からの独特の地名に、なつかしのTVドラマ『わんぱくフリッパー』を思わせるニックネーム。いかにも、北海道だべさ~というチームが全国を制覇したのは画期的だった。
その強くなれた背景・経緯については、休刊となった某雑誌を読んでいただきたいが、何より大きかったのは、積極的に道外に飛び出して、外の野球に触れて、学んで身につけて、井の中の蛙にならなかったことかと思う。
「北海道の野球は、島国の野球でした。海を渡った時点で満足してしまうんです」
チーム創設の同じ年に生を享け、みずからもOBである笹谷監督は、全国常連の長曽根ストロングス(大阪)、多賀少年野球クラブ(滋賀)などの強豪チームが集う交流大会に出場したり、全国大会で出会った茎崎ファイターズ(茨城)などとも交流を深めながら、強くなるために必要なことを自分の目で見て、消化吸収し、自分なりの答えを見いだしたようだ。
フリッパーズの地元・札幌を訪れた4年前は、全日本学童で優勝した直後であり、さらに僕の故郷でもあるので、是が非でもと取材に立候補。取材のテーマは、日本一のチームはどんな練習をしているのか? 絶対ありきたりの練習ではないだろう。案の定、従来の常識や慣例を打ち破った、個性あふれるオリジナリティな練習を見せてもらうことができた。
くわしくは、のちほどアップする「練習おじゃま日記」に譲るとして、まず大きな特徴は、通常はランニングや柔軟体操から始めるというセオリーをくつがえし、「いきなり野球」の練習から入ったことだった。
--いつごろ、こういう練習を考えついたのですか?
「これまでに、いろいろ失敗して……あ、この練習は意味ないなとか、もっとこうしたらいいんじゃないかな、と試行錯誤しました。長曽根さんや多賀さんの練習を見ながら、自分の中でプラスアルファを取り入れて、たどり着きました」
笹谷監督は大学時代、フリッパーズのコーチとして関わって、卒業と同時に監督になったという。当初は、おおかたの野球チームと同じように「カッチカチにやっていました。軍隊のように声を合わせて、しっかりと歩調も合わせてアップさせていました。でも、毎日やっていると子どもは飽きるんですよ」。そのうち、準備しないと動けないという子が増えてしまった。そこで、「パッと動けるようにクセをつけさせる練習がいいのかな」と、ボールを使った動きをアップを兼ねて取り入れるようになったのだ。
小学生のうちは、それでいいんじゃないか。子どもたちは陸上部でも体操部でもない。野球をやりたくて、練習に来ているんだから。野球の道具を使いながら、野球に絡めた動作をいきなりやったほうが、体も気持ちも速効であたたまるというわけだ。
また、選手は一つの地域だけでなく、札幌市内のいたるところから通ってくる(札幌市は地下鉄網が充実!)から、平日は学校が終わってからの集合時間がバラバラという事情にも、このやり方はマッチしていた。小学生は体育の時間、休み時間の遊びなど、一日中体を動かしているから、ウォーミングアップなど必要がないという考えは、なるほど! 大人とは違うんだ、子どものことを第一に考えるからこそ、このやり方に結びついたんだと思い知らされたものだ。
このときの取材は、ベースボールマガジンMOOK『少年野球上達のツボ』に巻頭カラー11ページにわたって掲載された。MOOKは年1回の刊行で、毎年強豪チームの練習を満載している。東16丁目フリッパーズは、このとき初登場となった。
「上達のツボ、参考になります。特に長曽根さん、多賀さんの練習。読みながら、きっとこういう意識をもたせたいんだろうなと頭を働かせて、あの練習とこの練習を足せばいいんじゃないか、とか、あるいは掛け合わせたり、無駄なものは引いたり……」
そうして、6種類のキャッチボールをはじめ、実際に試合で起きるか起きないかというプレーの練習など、厳選された数多くの練習を披露してもらった。それでも、これがベストとは思わない、と笹谷監督は打ち明けた。
「もしかしたら、今やっていることは失敗なのかもしれない。というより、もっといい方法があるかもしれない。 現時点では一番いい発想から生まれた練習でも、2、3年後にはそれもベストだとは限らない。これからも、削ったり加えたりしながら、フルモデルチェンジではなくマイナーチェンジを繰り返します。
もし、今やってる練習が失敗だとしたら、子どもたちにとっては時間の無駄になるじゃないですか。そこは絶対に見逃さないように、常に現時点でのベストの方法をやらせてあげたいと思います」
常に現状に満足はしない笹谷監督。取材当時に紹介した練習法も、今はやり方が違っているかもしれない。そこで、練習おじゃま日記では4年前のプレーバックをそのまま再現することなく、4年後にどのように変わったのか、検証を加えたうえでお届けしようと思う。
前述したように、東16丁目フリッパーズは東区元町地区が活動拠点だが、選手は北から東から西から南から、市内各地から集まってきている。学童チームはそれぞれに、学区や地区ごとに入団枠が決まっているもの。いまは野球人口不足から、その枠を撤廃せざるを得ない地域も出てきているが、フリッパーズは「このチームでやりたい」子は住んでいる地域を問わず誰でも受け入れている。歩いて数分の子もいれば、交通機関を使って1時間ほどかけて通ってくる子もいる。能力のある選手を地区を問わずに集めているのではなく、フリッパーズの野球が楽しいから遠くからでも集まってくるのだ。
また、フリッパーズは幼年世代を対象に、野球の楽しさから学んでいける育成チームも設けている。それが「東16丁目キッズ」(当時の名称で、現在は同じ東16丁目フリッパーズの名で活動)である。
「キッズは昨年(2016年)から始めました。幼稚園の年少から小学3年までが対象です。平日は火曜・木曜日の5時から6時半。土日はどちらかが休み。小さいうちは、家族と遊ぶ時間も大切にしてほしいからです。4年生になったら、そのままフリッパーズに入ってくれる子も多いですが、まだまだ野球は楽しみたいレベルと考えているのなら、他のチームを紹介しています」
小学生のうちは、無理に野球に絞り込まなくても、習い事程度でいいと考える親子もいるので、その考えを尊重する。でも、中学以上になって、野球を本格的にやろうかなと思ったら、そのときはキッズでの経験が役に立つだろう。フリッパーズは囲い込みではなく、あくまで野球人口の裾野を広げる役割を担っているわけだ。
取材の日は朝から冷たい雨が降っていて、保護者たちが総出で早くからグラウンドの水抜き・整備をやってくれた。一人の保護者と話をしてみると、福岡にも赴任したことのある転勤族だった(ちなみに、東京・北原少年野球クラブの立石篤申さんも若い時分、札幌に赴任していた)。父親の転勤先に付いていって日本中の知らない町に住むことになる子どもは、必然と順応性も高くなるのだろう(なじめない子もいるだろうが)。以前、不動パイレーツ(東京)の深井利彦さんに聞いたところ、東京から札幌に転勤した親に付いていった不動パイレーツ所属の子は、フリッパーズにお世話になったという。
フリッパーズの選手たちと長く話をする機会はなかったが、雑談程度に話しかけると照れることも、てらうこともなく、普通の小学生の顔でこたえてくれた。僕は小学生から高校生まで札幌に住んでいたので、ローカルな地名を出してもスムーズに話ができたことは大きかった。やはり、北海道の子どもは、めんこい。
笹谷監督は、子どもに対する大人への対応をどのように教えているのだろうか。
「あいさつとか返事については、カチカチには教えていません。押しつけると形式的になって、子どもらしさがなくなってしまいます。自然にできるようになればいい。中学に行ったらどうしてもキチッと教えられるものなので。
ヘンにとっつきにくい子、はにかんだりする子にはなってほしくない。多少アホでも、よくしゃべって、個性も出せるように。愛嬌があって可愛げのある、大人にかわいがられるのがいいですね。
全国大会などいろんなところに行けば、自然と身につくし、しっかりしてくる。大人になっていく。コミュニケーション能力プラス度胸もつくので、それは野球にもつながります。この子たち、すぐ他のチームの子どもたちと仲良くなるんですよ。とくに関西のチームや沖縄のチームとは」
毎年、和歌山県でおこなわれている高野山全国学童大会にはフリッパーズも参加している。2021年は準優勝だった。しかし、目標としていた全日本学童(21年は新潟開催)には道大会の決勝で敗れて、2015年から続いていた連続出場が途絶えてしまった。
「日本一はずっと夢でした。死ぬまでに一度でいいからと思っていましたけど、なってみたらこんなに幸せなことはなかった。でも日本一はまだ夢ですよね。いつも日本一になれなきゃダメだということじゃないけど、来年(2018年は前回大会出場枠で出場)は今年以上に頑張らないと」
18年は初戦で多賀と闘って、好勝負を見せたが惜敗。続く19年はベスト8で涙を呑んだ。「もう一度日本一になりたいし、もっとチームに安定感をもたせないといけません。僕も監督をやりながら、もっと指導力・組織力をつけていきたい」と、取材時に語っていた笹谷監督。夢はまだ旅の途中だ。僕も、これからのフリッパーズの成長を末長く辛抱強く見守り続けていきたい。
そして、なつかしい札幌を訪れて、なつかしい人との再会も実現したいと思う。
最後に現在は鬱々となりがちなコロナ渦の自粛中にも、沸々と巻き返しを狙う笹谷監督から、近況の心境をこめたメッセージをお伝えする。
「2年間、全日本学童に出場できずに悔しい思いをしておりますが、やはりどこかで、良いかっこしていて、慢心があったと反省しております。
ですが今も、深い愛情のもと、正しい厳しさをフリッパーズの活動で提供していき、目標を達成したり、夢を追いかける充実感を、選手・保護者の方々に日々感じてもらえることを1番に考え精進しております。東16丁目フリッパーズは“過去”を捨て再スタートしております。
ギラギラしていた自分を取り戻し、もう一度全日本学童での日本一を目指し何年かかってもいつの日か実現したいと思っております」
【Vol.020】 飯塚教裕(妙高市立斐太北小学校校長)
底辺から野球を
2021年8月。コロナ渦の昨年は中止となった学童・中学の全国大会はいまのところ、会場を変えても実施する予定で進んでいる。コロナ渦は変わらないが、各大会本部が感染拡大予防につとめる一方で、強行される東京五輪の影響から、神宮球場などを使用する全日本学童大会は新潟県に開催地を移しておこなわれ、横浜スタジアムを使用する全日本少年大会は、横浜市保土ヶ谷区でおこなわれる。五輪強行開催には反対の声も根強く、さらにここにきて各地で豪雨土砂災害が相次いでいる。五輪選手には、「被災地に勇気と元気を送りたい」などという安易なコメントは発してほしくないと思う。考えすぎだろうか。
話はそれてしまったが、夏が来ると思い出すのが過去に取材した全国大会。大会取材が終わっても、その後のお付き合いが続いている指導者も多く、その一人が新潟県の飯塚教裕(たかひろ)先生である。2014年徳島県でおこなわれた全国中学校大会(全中)で仙台育英秀光中、中標津中に続く全国3位の成績を残した監督さんだ(詳細は、コラムVol.012 徳島全中プレーバック「スーパースターはいなくとも」を参照)。
「ご無沙汰しています。直江津中教頭として、3年の勤務が終わりました。
まさか小学校になるとは……。全校77名のほのぼのとした学校です。通勤時間10分、今までとは考えられません」
今年4月、飯塚先生は中学校の教頭から一転して、小学校の校長になったと聞いた。直江津中野球部が全国3位となった翌年から管理職となり、新潟県の規則により部活動の指導ができなくなった。主幹教諭を3年、教頭を3年、そして今年からは小学校校長に。全国大会で実績を残したにもかかわらず、その翌年から野球の指導ができなくなるのは、あくまで本業は教員であるからには仕方のないことだが、飯塚先生の夢はあくまで「野球を教える」こと。高校野球への道も模索しつつ、現在まで実に6年もの歳月が経過した。
驚くことに、野球部顧問としての経歴はトータル8年しかないということだ。直江津中の3年間、その前任校(板倉中)の5年間だけになる。そんな飯塚先生の指導者としての歩みを振り返る。
大学を卒業して4年間、神奈川県の電気メーカーのサラリーマンだったが、どうしても野球の指導者になりたいと、退社して中学教員を志した。退社する日、会社の同僚・上司の前で「野球の指導者になって、日本一になれるよう頑張ります」と大見得を切った。そのときは横浜スタジアム(全日本少年大会)を目指していた。
新潟県の教員となったのは、自身の両親の出身県という理由もあった。東京および関東は倍率が高く、採用試験を受けるにあたって、北海道から和歌山県まで東日本を中心に募集要項を集めたという。
新潟の中学教員となったものの、野球部を持たせてもらうまでに9年の歳月をついやした。女子ソフトボール3年、柔道4年、陸上2年。「実績もないので、赴任した学校に野球部の顧問がいると、他の部に回っていました」。そして、教師となって10年目、上越市立板倉中学校で念願の野球部顧問となる。新人戦(秋)だが県大会に出場することができた。部員は12名だったという。
しかし、その後は大学院に行って2年間の研修を積むことになり、野球部指導の道からは一時それることに。
「新潟では、大学院に行くと、前任校の部活指導もできません。そのため、少年野球(学童)のコーチとして、その後に息子も入学することになる新井中の子どもらを指導していました。けん制やサインプレーも教えました。その後に直江津中で教えたことと同じです。だから、このときの子どもたちが新井中に進んでからも、サインプレーのけん制でランナーをよくアウトにしていました」
(写真)2014年夏の徳島全中、直江津中は初出場で3位に輝く。後列左が飯塚先生
ちなみに、この新井中(妙高市)とは直江津中と同地区にある強豪中学校で、飯塚先生の長男・彬智(あきのり)君も、このときコーチとして指導した学童チームに在籍した。
「彬智は小学校2年生までは、本人が希望しなかったためにチームには入りませんでした。私が指導していた中学校(板倉中)の野球部に帯同するかたちで、練習から遠征・合宿・3年生の送別会まで、中学生と同じメニューをこなしていました」
おそらく、長男・彬智(あきのり)君は自分の意思で野球チームに最初から入らずに、父親の指導する野球部についていって、中学生と一緒に練習するうちに、自ら「野球を本格的にやりたい」と思ったのだろう。父親が野球の指導者だからといって、本人が希望しなければ野球以外の道に進む可能性もあったのかもしれない。
飯塚先生にはもう一人、娘もいて、やはり自分の意思で野球をやるようになり、高校ではソフトボール部に入った。
「娘は悠帆(ゆうほ)と言います。(直江津中全国3位の2014年時点は)5年生です。彬智が小学校を卒業した昨年から野球を始めました。それまでは、応援に行くことも嫌がっていたのですが、突然『私もやる』ということで、兄と同じチームに入りました。
女の子1人ですが、辞めません。試合にも出ていますが、なかなかバットにボールが当たらないのが現状です」
長女・悠帆(ゆうほ)さんが兄・彬智(あきのり)君の応援に行くことも嫌がっていたのは、おそらく兄や父に対する反抗心があったのだろう。しかし、兄が中学に上がった後は同じチームでやることもないので、自らチームに入って野球をやることに決めたのだと思う。
僕は飯塚先生とメールをやりとりし、こうした息子さん・娘さんの話も聞くにつけて、中学の指導者としてはもちろん、自身の子どもの指導というか教育方針(?)も「いいな!」と感じたものである。いわゆる、父子鷹みたいなエピソードが世間的には好まれると思うのだが、「親は親、子は子」といった育て方のほうが自然なのだと。飯塚先生本人もおそらく意識してやったわけではないのかもしれないし、自然とそうなったのだと思う。
実は直江津中が全国3位になった年、息子がライバル校のエースとして立ちはだかった。新井中の2年生エースとして、父親の直江津中を1-0で退けたのだ(全日本少年の上越大会)。
「その後、新井中は県ベスト4までいきましたが、しばらくは、飯塚家の中はぎくしゃくしている状態で、父親の面子にかけても夏に頑張るしかないという……。そのおかげで、全国3位になったのかもしれません。
徳島から戻って、ヒットエンドランに直江津が掲載されて、父親の威厳を取り戻すことができました(余談ですが、下の娘も野球をしているのですが、雑誌に私が掲載されて、一番驚いていました)」
ちなみに、長女・悠帆さんは中学に進むと、野球部を選ばずに柔道部入部。あとひとつ勝てば全国大会というところまで二度もいったというから驚きだ。
「娘はもともと柔道もやっていたので、中学1年生から北信越大会に行っていました。妻いわく『飯塚家の家系は一番はとれないのね』と(笑)。私は直江津中で県3位、北信越2位。兄も新井中で県秋2位、県春3位、県夏2位でしたから」
(写真)全中の翌年、直江津中を訪ねるが、飯塚先生は他校に異動して主幹となっていた
さて、父のほうは、大学院の2年間の研修期間中、中学野球の指導からは離れたが、新井の少年野球チーム指導を経験したことで、それが結果的にはその後の直江津中の躍進につながり、同地区の上越における中学野球の底上げにも貢献したのだと思う。
しかし、直江津中が全国3位になった2014年をピークに、新潟だけでなく全国の中学野球は勢いを失うことになる。野球人口の減少に拍車をかけるように、部活動の時間を減らされるガイドラインが文部科学省によって出されたからである。さらに、いつ終わるとも知れぬコロナ渦……。
「上越地区だけではないと思うのですが、野球離れが止まりません。中学校も3学年で20人そろわないチームがほとんどです。新井中学校区も、以前は2チーム幼年のチームがあったのですが、上記の理由で統合し、1チームとなりました。直江津中学校区もしかりです。
全中の後、私が直江津中学校を出てから5年間県大会に出場していません。3年前に教頭として直江津中に戻ったときは、まったく違う部になっていました」
若い指導者が顧問になっているのだが、生活指導に忙殺されるがために、部活指導に専念できなかったことが大きな原因となっていたようだ。それでも、飯塚教頭が小学校への転勤が決定となって、直江津中を離任するとき、
「3月31日、直江津中を旅立つとき、昨年から顧問になった私をよく知る指導者が、ノックをする機会を設定してくれました。やはり、野球の指導はよいですね」
妙高市立斐太(ひだ)北小学校の校長として、2021年4月1日から新たな教員生活のスタートとなった。
「小学校籍なので、私が(休日を利用して)直江津中の練習に出ても何ら問題はありません」
何と中学校の管理職なら他校の指導はできなくても、小学校に在籍していれば問題はないのだという。しかし、それでは中学野球の強化につながらないと飯塚校長は思っているようだ。問題なのは小学生年代の野球人口の減少。やはり底辺がしっかりしていないと、その上の中学・高校にもつながらないだろう。これからは、底辺を広げることが飯塚校長に期待される大きな仕事ではないかと、僕は勝手に思うのだが……。
(写真)2014年徳島全中3位の記念碑は今も直江津中グラウンドに建っている
「今後(野球の指導について)どうするか、考えます。
息子は大学に進んで硬式野球部で内野手として頑張っています。娘は高校3年生でソフトボールをやっていて、夏に全国大会出場を目指していましたが、惜しくもかないませんでした。今は大学受験に向けて勉強中なので、私もいちおう高校数学の教員免許ももっていますので、聞かれた質問には答えられるようにしておきたいと思います。
顔見知りの方と一緒に野球に力を入れているチームを回ったり、興味のあるチームを訪問し、野球の勉強をしようと思っています。まだまだ、知らないことがたくさんあると思いますので」
小学校の校長として、地区の学童野球チームと連携を取ることはできても、直接に指導に関わることは難しいだろうし、そこは現場を尊重するべきだろう。校長としてできることがあるとすれば、生徒に野球の楽しさを押し付けることなく教えて、本格的にチームで野球をやりたいと自然に思わせることかもしれない。今の小学校には「ベースボール型授業」を取り入れることも積極的に推進されているようだし。
「ティーボール野球など低学年にはよいのかもしれません。
また、小学校のときには野球をやっていたのに、中学でやらない子も多いという問題も何とかしなければいけないと思います。坊主頭も関係しているのか……。
一方で、小学校の指導者にも課題があると感じています。試合中、大きな声で子どもができないことを言っている指導者が実に多いように感じます。子どもができないのは、指導者ができるまで教えていないから、見ていないからだと思います。
野球は楽しいこと、野球とは奥深いものだということを大人は子どもたちに伝えていかなくてはいけないと感じています」
第41回全日本学童軟式野球大会マクドナルド・トーナメントに地元枠として、出場するのは4チーム。そのなかに、第3位として飯塚彬智・悠帆兄妹(きょうだい)の出身チーム「新井ジュニア」(2チームが合併)も含まれているが、地元開催の4チームは多いような気もする(東京開催でさえ、3チーム)が、勝敗よりも、全国大会を地元で開催できることを大きなチャンスととらえたほうがいいのではないか。全国大会の雰囲気や強豪チームの試合をじかに目にすることで、野球の面白さ、素晴らしさ、大会運営を支える人たちのありがたさを存分に味わうことのできた子どもたちは、きっと未来の新潟野球を担っていくだろう。
そのためにも、飯塚校長をはじめ学童野球・中学野球にたずさわる人々の力には、大いに期待していきたいと思う。
コラム
野球の素晴らしさ、成長力を示した全中世代
最後に、「子どもたちのすばらしさや野球の深さを感じていただきたく」と、飯塚先生自身の手によるコラムをお届けしたいと思う。
お笑い芸人のティモンディ高岸さんが、「やればできる」というフレーズを言われています。
全中出場のチームは、秋も春も地区予選で2つしか勝っていません。
もちろん県大会、そして県代表決定戦にも進出していません。
5月の春の大会が終わったとき(新潟は豪雪のため、春の大会が4月末から始まります。)、ミーティングを開いて、「何が負けた要因か」、「県大会に行くためには、何ができないといけないか」、時間を掛けて確認したことを覚えています。主将をはじめ、子どもたちの中には全国大会に行きたいという子どももいましたが、実績からすると現実的に厳しいですよね。でも、真剣にそういう思いをもっている子どももいました。
そのお陰だと思いますが、北信越、全国と延長戦が4回ありましたが、すべて勝ちました。
集中力を切らさず、じっと耐えて試合に臨める子どもたちでした。
その3ヶ月後、全国3位になったのですから、子どもたちの「成長」はすばらしいです。
「やればできる」というフレーズは、私の中にとても響きます。
余談ですが、あの時の子どもたちが高校3年生になった時、最後の夏を迎えるにあたり、異動した私のところまで訪問し、「最後の大会なので、試合を見に来てください。」ということがありました。
また、大学1年生や就職した年の夏休み、私は直江津中に再度勤務していたので、顔を見せに来てくれました。
高校3年生の夏の大会が終わってから、一生懸命に勉強して国立大学や六大学に進学したことを報告してくれました。また、地元の建築関係の企業に就職し、がんばっていることも報告してくれました。
教員冥利につきます。
野球を通して、心や人としての成長ができることを今でも感じています。
【Vol.019】 川越市立大東西中学校と鈴木憲之監督
正解は無限に
2017年夏。わずか4年前のことだと思えば、それは遠い昔の話ではないのかもしれません。しかし、去年から今年へと続くコロナ渦で世の中から奪われた活気というものを考えるにつけ、4年前に出会えた「活気と熱気と活力」は夢のようでもあり、だからこそ、また取り戻さなければならないのです。
ある中学校の野球部の試合を見たとき、この元気っぷりは「ハンパじゃないな」と感じました。いい当たりを打って、ヒットならもちろん、アウトになっても、ベンチに帰ってくる選手をハイタッチで迎える光景は今では珍しくありません。しかし、このチームはファウルでも盛り上がって、ベンチ総勢ハイタッチ、ハイテンション。
「ちょっとやりすぎ、ですよね」
苦笑するのは、川越市立大東西(だいとうにし)中学校野球部、鈴木憲之監督。ピカピカに美しいスキンヘッド。常に笑顔で、子どもにはもちろん、大人にも語りかける純天然の明るさ。
「私がこんなキャラクターなもんですから(笑)。川越市の他の中学校からは、オマエのところとは合同チームは組めないよ。この雰囲気だとウチの選手がつぶされちゃうよ、なんていわれます」
--野球部の生徒たちは、もともと、こんなに元気なのですか。
「いいえ、おとなしいので元気にさせています。朝練なんかでは、近所からうるさいと苦情もいただいていますけど」
おとなしい生徒が多いのが普通なのに、うらやましいほどの元気さ。たしかに、うるさいかもしれないけれど、まわりの気持ちも元気にさせてくれる。「学校を元気に、そして地域も元気にしたい」というのが鈴木監督の思いだという。
初めて目にした大東西中の試合は、東埼(とうさい)対抗のリーグ戦。東京の多摩地区、埼玉の西部地区と隣り合う地域の交流のため、春と秋の年2回おこなわれています。大東西中は秋に川越市準優勝、明けて夏の選手権に県大会出場をかけて、この東埼対抗で腕試しをしようという気持ちで臨んでいました。
初戦、所沢の美原中を相手に、ホームスチールの1点で勝ちきった。決めたのは、背番号9の木村柊磨(しゅうま)君。「彼は小学校のときは補欠で、ボールボーイでした」。続く練馬中(東京)戦では、最終回のオモテに逆転されるが、裏に再逆転してサヨナラ勝ち。
「実は昨日、川越市大会の準決勝でも同じような展開から逆転して勝ちました。だから、選手には『昨日のやつな!』と言い聞かせて。今日も逆転勝ちできたら本物だぞと」
この東埼対抗はグループ内の上位が決勝トーナメントに進出できるレギュレーション。初戦が1点差勝ち。得失点差を稼がないといけない2戦目は、その得失点を広げられずに最後は逆転されました。予選突破には厳しいと判断した鈴木監督は、目標をスパッと切り替えて、「県大会になると、連戦もあるし、そこでは絶対に勝たないといけません。何点差でも勝ちは勝ちなので、2勝できたことを成果だととらえようぜ、と選手たちにも話しました」
中学生を指導する指揮官は、とかく勝敗にこだわりがちになるものです。しかし、本来は選手の成長こそが何より大事です。モチベーションを明確にしてチームをもりたて、選手個々の成長を願い続ける鈴木監督の指導方針はとても中学生に合っているものだなと感じました。
鈴木監督は自身の選手時代、指導者を反面教師にして学んだことを、自身が指導者となった現在に生かしている、と言いました。
「経験しているはずの場面で、選手がうまくできなかったとき、指導者はついつい『教えただろう!』と怒鳴ってしまいますね。でも私は、そう言っているうちはダメだなと、ふと思って、『学んだだろう?』と言うようにしています。教えた、教えられたは受け身の言葉だけど、学んだは、自分主体の言葉ですよね」
このとき(2017年)の東埼対抗では残念ながら、決勝トーナメントに進めなかった大東西中でしたが、地元に帰って、その経験を生かして川越市大会を勝ち抜くと、見事に埼玉県大会に進出しました。僕は、この晴れの初戦を観戦しようと、越谷市民球場を訪れたのでした。
試合の結果は、0対3--初戦で3年生最後の夏は終わりました。保護者を交えた最後のミーティングが球場外でおこなわれ、その場に僕も参列させてもらいました。以下は、そのときの鈴木監督最後の挨拶です(少し長いですが再現します)。
「敗れましたが、今日うれしかったのは、最後は選手たちが顧問の手を離れたところで、自分たちの意識で野球をやってくれたことです。
試合の最後に、いろんな選手を試合に出しましたけど、はっきり申し上げてお情けで出したつもりはまったくありませんでした。試合展開で、ここはこの選手が確率が高いという判断です。
そうしたなかで、ひとつ心残りなのは、ケガをした大河原竜馬君を出場させてあげられる場面が作れなかったことです。なので今度、牛丼屋でたらふく食べさせてあげたいなと思います(笑)。
彼ら(3年生たち)とは、勝つことを俺と約束してくれ、ということは求めませんでした。勝ち負けとは、一生懸命やっても伴わないことがあるからです。だから、今まで学んだこと、身につけたことを全部出そう! あきらめずにやろう! それは約束してくれと。
子どもたちは約束を果たしてくれました。人との約束を果たすことは大事なこと。人との約束を果たせる人は、人から応援してもらえるし、信用してもらえる。そういうことは、この先(の人生)で絶対に生きることだと。
私はこんなキャラクターなので、そういうことを『どうなんだ、おまえ』とたずねたり、『こういうことが生きていくうえで大事なんだ』と追求することは、校舎の中ではできません。だから、グラウンドという場所を借りて、こういうふうに彼らと接することができたのも、お父さんお母さんの理解があってこそです。
実は、誰一人欠けずに現役生活を終えた代は彼らが初めてです。私が11年間、野球部顧問をやってきて……(一同拍手)。
だから、本当に褒めてあげてください! 本当に彼らは頑張ったので、今日は……今日も! おいしいものを食べさせてあげてください! ありがとうございました」
どうですか? その場にいて聞いていた部外者の自分にとっても感動的でしたし、もし自分が親だとしたら、こういう先生に子どもを預けられたことを誇りに思うんじゃないかなと感じました。
2018年度を終えて、大東西中を離任。最後の三世代の選手たちから花束を贈られた
あれから4年--。コロナ渦の世の中となって、あの鈴木先生がどうしているか気になって、SNSを通じて連絡を取ってみました。鈴木先生は永年指導した大東西中を離れて、同じ川越市の城南中学校に転勤となっていました。しかし、すでに野球部には正顧問がいたために、最初は副顧問として、チームを陰からささえたということです。そして今年2021年、2年間の副顧問時代を経て、晴れて監督になりました。6月11日に始まる川越市総体が、新任後初の公式戦となります。
「4月から、水を得た魚のように飛び跳ねています!
副顧問というのがそもそも初めてだったのと、務めている最中に元号が令和になったことは、とても大きかったです。『時代は、令和ですから』が口癖になりました」
--では、今度の大会はご自身、「令和初の公式戦」ということですね。副顧問時代はどんな仕事をしていたんですか
「なるほど、たしかにそういうことになります。
私は普段、中体連の審判部に所属しているので、若い顧問がいるうちは、試合のときの審判として徹しました。
普段の部活動は、極力口出ししない。なぜならば、逆の立場であったら、口出しされたくないからです。と言いつつ、一歩引いたところから見ていて、あまり声を掛けてもらえずにいる生徒には、率先して声を掛けるようにしました。なかなか試合に出られない生徒ほど、「お前もチームにとって大切な存在だよ」と伝えたかったからです。
初めての副顧問として心がけたのは、「されて嫌なことは、しない」「してほしかったことは、率先してする」
なかなか、つらい2年間でしたが、その分、今までの自分を振り返ったり、これからの在り方を考える時間はたくさん得ることができました」
--ちなみに、今も大東西中のように「元気を出させる」チームづくりをしているのですか?
「もちろんです。お手本ではなく、応援していただけるチームづくりをしています。
チームづくりにおいて常に心がけていることは、
◯野球選手である前に中学生、中学生である前に人である
◯野球より手前の部分、それも心がけ次第でできることから取り組むことで、自信や可能性を高めていきたい
と考えています。
でも、今の中学校にはいい意味で、考えて野球ができる生徒が多いので、こちらが示したものに対して質問を受けることもたくさんあります。
そんなときは、「言われた通りにしなさい!!」ではなく、『結果を出せば、お前の勝ちだよ』と励ますようにしています。
月並みの言葉ではありますが、野球には『唯一絶対の答えなんて、ない』と思うからです。
私も、歳を重ねたということなのか、生徒たちの言葉に今までよりも素直に耳を傾けられる自分を、うれしくも思っている次第です」
若く血気さかんな時期を、大東西中のような、野球初心者も多く、シャイで自分を表現できずにもんもんと悩みがちな思春期の少年たちを相手に、自身も選手時代の気持ちに立ち帰って、選手たちとともに自らを高めていった鈴木憲之監督。12年間(鶴ヶ島市立藤中に5年・大東西中で7年)の「長き春」を経て、今は新しいステージ(城南中は3年目)で、青春を謳歌しようとしています。常に生徒たちとともに成長しようと志す中学野球指導者の今後にも注目していきたいと思います。
【速報=2021.06.14】川越市立城南中が市総体で優勝! 県大会の活躍を祈ります。
最後に、この記事を書くにあたって、伝えておきたいある保護者の話を紹介しようと思います。
大東西中野球部を取材した2017年夏、当時2年生部員の小山佳祐(こやまけいすけ)選手の母親、小山委子(ともこ)さんです。彼女は越谷市民球場の県大会初戦で、最終回に息子さんが代打に立ったとき、「鈴木先生、思い出作ってくれたんだなー、と正直思いました。その後、先生のお話をうかがい恥ずかしく思った私です」と語っていました。
「息子は、小1から小5まで地元の少年団で野球をやっていましたが、辞めました。そして、1年バスケをやりました。西中野球部への入部は、本人が決めました。『やっぱり自分は、野球だなー』と」
佳祐君は大東西中野球部で、最初はスコアラーをまかされたそうです。
「次女が高校生のときに野球部マネージャーをやっていた時期もあり、スコアは次女と夫が自宅でサポートしていました。
夫は、ずっと中学校で野球部顧問でした。私としてはもっと佳祐の野球を見てあげてほしかったのですが、夫は自ら誘う手取り足取りタイプではなく、アイツが本気で野球をやりたい! 教えてほしい! と言ってこない限り手を出さない、という人でした。そんな状態だったので、母親としては佳祐がかわいそうだなぁと思っていましたが、ふとしたときに始まる夫と息子のキャッチボールはとても楽しそうに見えました。
佳祐にとっては苦い思い出もあったり遠回りした“野球”かもしれないけど、結果的にはそれで良かったのかな? おかげで、自分で自分のやりたいことを見つけていけるようにはなったのかもしれません」
小山佳祐君は現在高校3年生。弓道部に所属して、主将も務めているそうです。かつて鈴木先生は、部員たちの将来について、こう語っていました。
「たしかに、野球を続けてくれたらうれしいですけれど、夢中になれるものがあれば、野球じゃなくてもかまわない。ただ、何もしないのはやめてネ(笑)」
そのとおり、自分で自分のやりたいことを見つけた小山君。そのかげには、陰日向でささえてきた両親、兄弟、そして中学時代の仲間や恩師の存在があったでしょう。現在の成長した姿を写真にして、中学の恩師に見せてあげたところ、
「この男前は、誰ですか?!」とあまりの成長ぶりに驚きを隠せませんでした。ちなみに、小山家では今でも「鈴木先生の話題」が食卓に上っていると言います。
このほかにも、大東西中野球部のOBたちは皆、おのおのの場所で活躍しています。エースの大河原竜馬君は県立狭山清陵高校に進み、現在は東京国際大学で硬式野球部に所属しています。4年前の主将だった綿引大将君は私立川越東高校を経て、国士舘大学に進学。教師を目指しながら、ときどき、鈴木先生の野球部を訪ねては外部コーチを務めているそうです。他の選手の現況も追い追い、紹介していきたいと思います。(了)
大東西中OBはいま
綿引大将(左)は国士舘大1年。教員志望
中学では主将。捕手兼投手で牽引した
【Vol.018】 東風平中学校(沖縄)2012
風が吹いた夏
2012年横浜スタジアムでおこなわれた全日本少年軟式野球大会(中学生の甲子園)で、沖縄の東風平(こちんだ)中学校は準優勝だった。僕は大会でこのチームに魅せられ、応援する気持ちで取材していたが、なぜか僕が応援するチームは頂点に立てない。しかし、9年たった今もあの日の記憶はあせない。2012年はロンドン・オリンピックの年。「風が吹いている」。いきものがかりの大会公式ソングが頭の中でリフレインした。あのとき、さわやかな風は、 たしかに横浜スタジアムを吹き抜けていた。
このコラムで何度も書いてきたように、過去僕が全国大会を取材してきたチームで、「このチーム、もっと見たいな、勝ってほしいな」というチームはなぜか、ことごとく、良くて準優勝に終わっていました。でも、優勝しなかったからダメということはもちろんありません。準優勝でも、僕はそのチームをますます好きになったのですから。
さて、東風平中学校。上の写真は表彰式のあとの記念撮影です。保護者たちもグラウンドに降りることを許されて、記念撮影をしていましたが、まだ泣きじゃくる選手たちに、お父さんお母さんたちは「胸を張りなさい! 優勝も準優勝も、おんなじサァ~」と明るく励ましていたのが印象的でした。
話は大きく、場外越えの大ファールボール並みにそれますが、僕が初めて沖縄に行ったのが1987年のこと。会社を退職して、命の洗濯をするつもりの放浪旅でした。南風原町に移住していた友人のところに居候になりながら、八重山の離島ではテント生活。約2ヶ月も滞在しました。当時、沖縄県は本土復帰15周年(5月15日)を目の前にしていましたが、それから月日は流れて、来年2022年は復帰50周年を迎えることを知ってビックリしました。日本(ヤマト)復帰が良かったとは簡単に言えませんが、オキナワが好きであることに変わりはありません。僕の故郷は北海道ですが、北と南の違いはあれど、大らかな土地柄・人柄はどこか似たところがあるのではないかと思っています。
東風平中の金城弘周(きんじょう ひろのり)先生とは、全国大会が終わってから電話取材をさせてもらって、大会のチームレポートを書かせてもらいました。その後、沖縄の代表校が全国大会に出た2018年にはスタジアムで落ち合って、中華街でご飯を一緒に食べたこともありました。野球のこと、オキナワのことで話は盛り上がりましたね。金城先生、現在は糸満市立三和中に赴任して、野球部は見ていませんが、まだ小さいお子さんの育児に頑張っています。
金城先生は、1972年2月生まれ。当時のオキナワはまだアメリカでした。復帰50年になる来年、金城先生も50歳を迎えるというのは奇遇な一致でした。思えば僕が初めてオキナワを訪れた1987年4月、金城弘周少年は東風平中を卒業して高校生になっていたんですね。東風平中野球部で野球をやっていた彼は、このときの指導者にあこがれて、中学生ですでに教員を志したのだそうです。
今回のプレーバックを構成するにおいて、新たに記事を書き起こそうとも考えましたが、当時書いたときの質を超えられそうにもなかったので、原文に一部加筆するかたちで以下にお届けすることにします。
チーム・インサイドリポート
東風平中学校クラブ(沖縄)
「守備からリズムをつくって、攻撃で一つひとつのプレーを大切にして、そこから一つのチャンスをモノにするチームです」(金城知之投手)
「相手に流れが向きそうなときは、いったん間をおいて、点を取ろう。前日からチームで打ち合わせていました。みんな明るくて、誰かが落ち込んでいても、みんなでカバーして明るくできるのがチームのいいところです」(喜屋武天太主将)
気持ちよく守って、気持ちよく攻撃して、気持ちよく勝つ。明朗快活な野球を見せてくれた東風平中クラブ。だが、全国の決勝の舞台に立つまでの道のりは遠かった。全国出場を決めたのが3月29日(沖縄県は全国一、予選が早い)。しかも、3日後の4月1日には垣花英正監督が異動となる(現・糸満中)。代わって東風平中に赴任した金城弘周監督のもと、全84名の野球部員たちによる5ヵ月に及ぶ長い旅が始まった。
「3月までは離島(渡嘉敷島)の小・中学校勤務でした。そこではバドミントン、陸上を教えていましたから、念願の野球部復帰。東風平中は私の母校なんです」
金城監督は、かつて三和中(糸満市)を全中(98年・準優勝)、全日本少年(00年)と2度全国大会に導いている。その実績・経験は選手たちに安心感を与えたが、最初はコミュニケーションに苦労したという。
喜屋武主将が振り返る。
「自分たちの野球をやりたいけど、どうやって伝えよう? とにかく自分たちの野球をまず見てもらおう、と。すぐに練習試合の指揮をお願いしました。また、守備が持ち味なのでノックをたくさんお願いしますとも言いました。そこから先生も積極的にきてくれるようになったんです。垣花先生のやってきた野球をみんなでやろう。金城先生は、それをより具体的にしてくれました」
垣花前監督の指導を尊重し、継承したことも大きかった。打撃と機動力が売りで、守備力も高い。だが、「点を取った後にすぐ取られるのが課題でした」と金城監督。間合いの取り方、タイムのタイミングを教えていき、全国大会ではすべてタイムは選手の判断に任せることになる。金城監督が打ち明ける。
「沖縄では地区でも県大会でも、タイムが取りにくく、さらに東風平は接戦でもあまりタイムを取らないチームでした。今回、全国にきて宿舎で言いました。本当にキツイ場面ではみんなで話し合って、タイムを取っていこうと。自分たちで落ち着かせることができるようになりました」
全日本少年出場を決めたチームは中体連の大会に出場できないため、4月から練習試合を積極的に組んだ。全日本少年・春3位の山内中を初め、県4強チームと実戦さながらの試合をこなしていく。さらには「相手が何を狙っているのか、察知力を磨くために、初めて組む相手ともやりました」と、時には約70キロ離れた北部の名護市への遠征も敢行した。
大会直前に行った合宿も本番を想定したものだった。選手だけで宿泊し、洗濯などは自分たちで行う。那覇から通って試合をこなし、最終日は学校に戻って練習という日程。だが、疲れのために体と心がかみ合わず、ようやく動き始めたのが午前10時のこと。「全国の最終日だったら、第1試合(準決勝は8時半プレーボール)が終わっている時間だよと。そこで全国大会の生活リズムを覚えさせました」。大会中は9時就寝、5時半起床を習慣づけた。
8月20日、全日本少年大会開幕。選手たちは高揚感から「つい暴れちゃって、怒られました」と喜屋武主将が自白する。金城監督も初日こそ檄を飛ばしたが、「沖縄での合宿はまだ遊び感覚でしたが、最後は疲れも出てきて。身が入らないまま全国に臨んだんです。最初に叱った後はリラックスさせることだけを考えました」という。
東風平中は2日目(21日)の第3試合、逆転で初戦を突破する。「試合後は選手だけ宿舎に帰して、昼寝させました。緊張と暑さで疲労もたまっていましたから」。初戦に向けて良い緊張感を維持し、勝った後は休むべくして休ませる。翌日は第4試合ということから、起床・出発時間ともに遅くした。相手の情報は監督が前日視察して、対策は当日の朝、エースの金城知之に伝えたという。「前日に教えると緊張して寝られないかもしれませんからね」。選手の性格・気質を十分に把握してのことだ。
かくして東風平ナインは一歩ずつ階段を上り、約束の地・決勝に駒を進める。「2年生で新チームを立ち上げたときから、目標は全国制覇と決めていました」と喜屋武主将。圧巻は準決勝。3点を先制したその裏、ミスから1点差まで追い上げられるが、選手たちは動揺せずタイムを取ることもなく、最後まで崩れることがなかった。ウイニングボールを捕った瞬間、喜屋武の弾けた笑顔が手応えを物語っていた。全国に向けた県での取り組み、全国大会の4日間を通して、さらにたくましくなれたのだ。
それでも力及ばず準優勝に終わったが、「胸を張って沖縄へ帰ろう」と金城監督。選手らも達成感を感じていたのだろう。キャプテンはひとしきり泣き暮れたが、エースに涙はなかった。
中心にいつも彼がいた
天衣無縫、太陽の子
HERO列伝●喜屋武 天太(きゃん てんた)
[東風平3年/一塁手/165cm62㎏]
決勝戦の前、東風平中のベンチ前に大きな輪が広がった。スタンドからの指笛・エイサーの太鼓に合わせて、ゆっくり集まって円陣となる。中心ではキャプテンが両手を突き上げていた。やがて鬨(とき)の声が上がる(上記4枚の写真)。
「沖縄独特の儀式なんですが、選手たちが考えてやっていることです」と金城監督。輪の中心には“太陽の子”=喜屋武天太がいた。
チーム全員が一球一球に敏速に反応できる。その守備陣を統率しているのが、喜屋武主将。守りながら外野のポジションを細かく指示。攻撃時はネクストバッターズサークルにいて、素振りをしていても、走者の動きを注視し、時には注意の大声を張り上げていた。その存在は、まさに太陽。プレーの一つひとつに気持ちが見て取れる。絵になる男だ。
極端と言えるほどのクローズド・スタンスは「踏み出しが足りない」というコーチのアドバイスを受けて自ら考えたものだという。そこから初戦のチーム初安打が生まれ、硬さのとれたチームは逆転勝ちする。「インハイを引っ張ってツーベース。彼のヒットが火をつけてくれましたね。あれがなければズルズル行っていたかもしれません」と金城監督も絶賛していた。
最後に凡退しても、味方を鼓舞する笑顔を忘れなかったが、決勝戦の敗戦後は一気に涙があふれた。「垣花先生の教えを金城先生がより具体化してくれ、自分たちの野球ができました」。そういうと、いつもの笑顔が戻っていた。
中学野球に悔いなし
高校では球威で勝負
HERO列伝●金城 知之(きんじょう ともゆき)
[東風平3年/投手/170cm50㎏]
西京ビッグスターズ・吉村颯に特大の本塁打を浴び、敗れた決勝戦。だが、試合後に涙は見られなかった。むしろベンチ前で淡々とクールダウンのキャッチボールに努めていた。「悔いは、ないですから…。」。良かったことは、このチームで全国制覇を目指し、成長できたこと。逆に、自分の力が足りなかったのは悔やまれた。それは高校に行ってからの課題とする。
「(決勝戦は)今大会で一番良かったです。大舞台でもしっかりと自分の力を出せました。ホームランは打ったバッターがすごかったです」
常に冷静でクール。無愛想なのかと思いきや、純真な目を輝かせながら人懐こく語る。持ち味は、カーブ。低めにワンバウンドしそうなくらいの切れで打って取る。「走者三塁のときは、バットに当てられてもいいくらいの低目を意識します」。すべては、味方の守備を信頼しているからこそ。「三振の数より、球数の少なさにこだわります」。守備から、攻撃陣にいいリズムでつなげることが、チームの真骨頂とわかっているからだろう。
細身だが、余分な力の入らないフォームを武器に「高校では、しっかりと球威で勝負できて、どのチームからも、すごい! と応援してもらえるピッチャー」になるのが夢だ、と最後に語っていた。
これは決勝戦が終わって閉会式。準優勝の表彰を受けたときの東風平ナインの写真です。泣き尽くしてなお涙をこらえる喜屋武君、後ろでは心で泣いている金城知之君の姿が印象的でした。僕はこの年のマイベスト・チームとして、東風平中を挙げさせてもらいました。それぞれの思いを胸に表彰を受けている各選手の表情もご覧ください。
彼らはすでに24歳。大学を卒業してもすでに2年目で、社会で活躍していることでしょう。あの夏、さわやかな風を吹かせてくれた彼らのことですから、その経験を糧にコロナ渦のいまもたくましく生きていると思います。
盾を受け取るのは4番打者の島袋龍星捕手
金城知之知之投手は高知中央高-城西大-現・大分B-リングス
トロフィーを授与された古波津佑投手は準決勝で完投勝利
賞状を授与された大城光貴二塁手
最後列左から3人目が、金城弘周監督
【Vol.017】 カバラホークス(2015全日本)
諦めない力
「カバラホークス」--このチームと最初に出会ったのが2011年の4月だった。
10年前の取材を縁に、僕はその後も東京都大会ではカバラホークスの試合に注目し続けてきた。「練習おじゃま日記」では、2011年の取材を振り返ったが、ここでは2015年のカバラホークス全国での戦いを回顧する。
2012年全日本学童東京都大会、カバラは決勝進出で全国大会を決めた。最後の決勝はいわば、勝っても負けてもいい。「おまえら、好きにやっていいぞ、と言ったら、本当に好き勝手にやって大敗くらいました(笑)」
厳しい練習に耐えてきたご褒美として、選手はノビノビやった結果、緩みすぎてしまったのだろうか。かといって、指導者が叱ることはない。ご愛嬌というか、そんな子どもらしさを尊重するチームだからこそ、カバラホークスは強いのかもしれない。
※
10年前の取材を縁に、僕はその後も東京都大会ではカバラホークスの試合に注目し続けてきた。
2度目の全日本学童出場を決めたのは2015年。優勝でも準優勝でもなく、3位決定戦を勝ち抜いての出場だったが、この年のチームは“あきらめない強さ”を見せつけてくれた。プレーオフの延長で6点取られても、7点を取ってひっくり返したゲームもあった。
その粘り強さは、全国大会にも遺憾なく発揮された。
⑨西潟聡希は副主将としてチームをささえた
庭瀬シャークスの長谷川投手は大会屈指のサウスポー
⑥大黒瑠海空は中舘とともに投手陣の軸となった
庭瀬の司令塔・岡崎選手も大会トップクラスの名キャッチャー
現在は岡山の高校野球で活躍するバッテリー。玉野商工のエースサウスポー・長谷川康生、創志学園の主将を務める岡崎虎太郎を擁した、庭瀬シャークスと稲城市民球場で対戦して、最終回に大逆転した。このときのカバラの投手の一人が、中舘宙(なかだて・みち)君(現・専修大学松戸高校)だった。
カバラ(東京)5=0010004
庭瀬(岡山) 3=0020010
東京勢最後の砦、カバラが逆転勝利。3回に四死球と暴投で先制するが、その裏に逆転を許し、6回には3点目を奪われて最終回を迎える。一死後、佐藤が四球で出ると、すかさず代打攻勢。原川が初球を振り抜いて中越二塁打で1点、なおも一・三塁とすると、大黒の逆転三塁打、富田のヒットで逆に2点のリードを奪った。庭瀬の長谷川は7三振を奪ったが、勝利目前で打ち込まれた。
チーム一の俊足は、小柄な佐藤佑君。都大会から彼の出塁をきっかけに逆転の狼煙が上がる。そして、この試合でも1死から四球を選んで反撃開始。代打に指名された原川晴仁君は「初球は待て」のサインを見逃して、かっ飛ばしてしまう。佐藤君を生還させるツーベースが生まれると、ベンチもイケイケ!
「うれしい誤算でした。あの回(7回オモテ)は、もうサインなしで…」と斉藤監督。「(逆転逆転の試合が多いことに)ハラハラドキドキさせるつもりはないんですが、いつもエンジンかかるのが遅いというか、ひっぱたかれないと目が覚めないというか、逆に6回の1点(1-3と引き離された追加点)が良かったのか、スイッチが入りました!」と選手も監督・コーチも保護者も、興奮が収まらない。
一方では、リリーフで流れを引き寄せた投手の大黒瑠海空(るうく)君は「打たれてもホームを踏まれなければいいと思いました。いつもウチは最後に逆転できるチームなんで」と冷静に振り返っていた。
和気 (愛媛)2=0000200
カバラ(東京)1=1000000
和気が前年王者の意地を見せて逆転勝ち。とはいえ、放った安打はわずかに1(3回、宗岡の遊撃内野安打)。初回の先制機は二死三塁から、主砲・村松が倒れ、その裏には先制を許す。カバラの先発・大黒は危なげなかったが、予定通りの5回に中舘へスイッチ。これが誤算。4死四球で同点、急遽大黒が再登板するも、連続押し出しを与えた。最終7回のカバラは一死一・二塁の同点機を作ったが、代打の松本、前田が倒れた。
この逆転勝ちで、翌日に神宮球場でおこなわれた3回戦に進んだカバラは、前年度優勝の和気軟式野球クラブ(愛媛)に挑んだ。1点をリードして中盤を迎えるも、5回にしっかりボールを見られて、四球を与え続けて2点を奪われる。実質ノーヒット(失策にも見えた内野安打が1本)に抑えるも、悔しい逆転負けを喫した。最後は何か起こしてくれるんじゃないか、という期待を背負いながらも、とうとう流れは引き戻せなかった。
涙を見せなかった選手たち。なかでも小兵の佐藤佑君は「今年はあきらめないチーム。少しでも長く試合をしたかったです」と潔かったのを覚えている。斉藤監督も「子どもたちは意外とケロッと淡々としています。もっと悔しがるかと思ったんですが、やった感はあるかなと」と選手たちをたたえていた。
あきらめないチームを作り上げたのは、間違いなく指導者たちの「少しでも長く試合をさせてあげたい」との思いが実を結び、選手たちに浸透していたからだと思う。
学童で終わりじゃない、この時期に少しでも仲間と野球を続けて、悔いのない経験を積ませたい。その気持ちは、これからもカバラホークスの伝統となっていくことだろう。
2015 カバラ・ナインの現在は
①中舘 宙(専修大学松戸高校)
⑤生内アンジェリカ幸(岐阜第一高校女子硬式野球部)
④佐藤 佑(上野学園高校)
左=⑩片山嘉月(関東第一)・右=大黒瑠海空(慶應)
③長尾輝星(都立足立新田高校)
⑦与那嶺祐舞(共栄学園高校)
当時5年(25)原川晴仁(日本大学鶴ヶ丘高校)
右=⑳富田直輝(堀越高校)ら5年生選手たち
【Vol.016】
勝田大介先生 (四街道市立旭中学校コーチ)
野球で学ぶ
「日常生活や学校の活動をしっかりやる」ことが「野球がうまくなる」ことにつながる。これは、特に中学の野球指導者の口からよく聞かれることだと思う。僕も学童・中学生の野球の現場を取材してきて、なるほどなと感じることも多かった。
たとえば、挨拶をきちんとすることが、なぜ大事なのか?
どこかのグラウンドで、ある中学生が「どうして挨拶が大事なんですか?」と聞いていたことがあった。挨拶をすれば、野球がうまくなるわけではない。しかし、知らない人にでも挨拶をすることで、自分の存在を認めてもらえる。そうすると、その挨拶をした大人や周囲の人たちとの関係もうまくいくようになるのではないか。その中学生に僕は「自分の居場所をつくることにつながるからじゃないかな」と偉そうに助言したのを覚えている。事実、部外者である取材者の僕もそうやって、自分の存在を知ってもらい、取材をやりやすくしてきた。
話がそれてしまったが、こういう考えもあることはご存じだろうか。
「学校生活をきちんとできたら、野球につながるのではなく、その逆だと考えています」
先に学校生活ありき、ではなく、野球ありき? 誤解されないために自分なりに補足すると、野球をやることで身につく、視野の広さ、深い思考力が社会生活を営んでいく上で必要な力がついていく、ということだろう。
「野球を通して問題解決するための頭や心を養ってほしい」
そう語ったのは、千葉県白井市、四街道市の中学校で野球部を指導してきて、大山口中(白井市)ではチームを初の全国大会に導いた勝田大介先生である。現在は県の教育委員会の仕事に携わり、学校教員とはまた違った立場で教育に貢献している。取材でお会いして以来、約7年ぶりにリモートでメッセージのやり取りが実現したので、今回は勝田先生について書いてみようと思う。
2014年、四街道市立旭中に勝田先生を訪ねた。取材目的は「ホームスチールの極意を聞く」こと。実は前年の全日本少年春季大会(センバツの中学野球版)に、前任の大山口中監督として出場した際、ホームスチールを成功させて全国1勝を挙げた。その実績に編集長が着目して、僕は取材付き添いとしてうかがったのだ。僕は大山口中の試合も見ていないし、勝田監督とも初対面。しかし、以前から勝田先生は僕のことを知っていた(「練習おじゃま日記」嶺岸秀一先生と高津中参照)のだからビックリした。
その話は後に回すとして、ホームスチールには賛否両論がある。「そんなの滅多に成功するわけがない」「相手のスキを突くなんて卑怯だ」というのが反対派の意見。しかし、ルールに違反しているわけでもなく、人道に反するわけでもない。野球を知っていれば、必ず生まれるスキを見逃さず、成功の確率が高いと判断したら仕掛けてかまわないし、使わない手はない(ただ、いつも使えるわけでもない)。
勝田先生は当初、やられる側の立場だった。「最初は自分たちがやられたくないという気持ちが一番でした」。千葉県の中学野球には海千山千のチームがいて、生き馬の目を抜くようなつわものが闊歩する。いつ、どこでやられるか。知らないことで悔しい思いをするのだ。
「初めて目の前でやられたとき、アッと思ったら本塁を陥れられました。でもその瞬間は(選手が)勝手にやったんだろうなくらいの軽い気持ちでした。あとで相手の監督さんに聞いたら、いや、あれは練習しているといわれて、そのときに初めてホームスチールは作戦の一つなんだと思いました」
その後も、練習試合で積極的にホームスチールを仕掛けてくる監督がいた。それが高津中の嶺岸秀一先生だった。「嶺岸先生には、しつこく聞きました。そうしたら一つだけ教えてくれたのです。今思えば、それが何だったのかは覚えていないんですけど」。覚えていないのは、つまり、教えてもらったことをヒントにして、自分でも熱心に研究を重ねたからなのだろう。
「嶺岸先生には何度も何度もやられ、どうすれば防げるのかも教わりました」。そして自分なりにアレンジも加えて、自分のものになってきたとき、恩師との試合を迎えた。ホームスチールが成功しやすい条件が整ったタイミングで仕掛けて、見事に成功し、それが決勝点になった。「それを防がれたら、自分はまだまだだ…と思っていました」
ホームスチール練習では各選手のタイムを計測。自分の走力を測ることで練習の意欲も高まる
佐倉高校(あの長嶋茂雄さんの母校でもある)ではエースとして甲子園も目指していた勝田先生。千葉大学硬式野球部では県リーグ2部でベストナイン(二塁手)を二度も受賞した。「プレーヤーのときは、ただガムシャラにやっていましたが、指導となると違いますね」
教員になると小学校に3年勤めて、大山口中に赴任してから野球部監督となるが、力のある選手が揃ったチームなのに、結果が出ないことに悩み続ける。「歴代で一番力のあったチームなのに、1イニングでヒット3本打ちながらも0点…何のために作戦があるのか、どう結果につなげるのか、私の考えが甘すぎて、ただ選手個々の力を伸ばすだけの野球でした」
戦力的に自分たちよりも下だと見ていたチームを相手に、ガンガン走られ、勝負どころではタイムリーを打たれる。「こちらは気合を入れるだけで、どのように戦っていくのか、ゲームプランは全くなしでした。そのときは、ただ速い球を投げればいい、遠くに飛ばせればいい…という感覚から変化をしようとしていた時期でした」
そんな時期、前述の嶺岸先生に何度も相談しては、いろいろな指導者を紹介してもらった。「勝ち上がっていくために、もっと視野を広げなければ……そんな流れで、近藤さんも紹介していただいたと思います」(勝田先生はFacebookで僕を見つけて、自己紹介とともに友達リクエストをしてきたのです)
本盗を仕掛ける練習と同時に防ぐ練習もおこたらない。投球に入る前なら、すぐにプレートを外してキャッチャーに「送球する」
捕手にも冷静な対応が求められる。ピッチャーが投球を始めていたら、あわてて飛び出さずにキャッチしてからタッチにいく
僕とのことは、さておいて--。
ホームスチールのことに話を戻してみると、勝田先生が大山口中の次に赴任した旭中では、「勝つために」という目的は二の次に考えて練習に取り組んでいた。実際の試合で決められる、決められないは別にして、ホームスチールの練習をやらせることで、本盗ができなくても三盗のコツはつかめる、パスボールの際のスタートも早くなる、攻撃の練習をすることで、逆に自分たちが仕掛けられたときの防ぎ方もわかってくる。
勝田先生の教え方は、まずホームスチールをやらせてみる。そして、問題点を指摘して、もう一度やらせる。教えることが先ではなく、まず経験させることが大事だと考える。「本盗を試みてアウトになったら、どこの位置からスタートしたか、全員を集めて確認します。じゃあ、スタート位置をその分前にすればセーフだよと」。そうして反復することで徐々にわかってくるし、練習も楽しくなるのだ。
選手との対話もおろそかにしない。練習試合で「このピッチャーどう思う?」「同じタイミングで投げてますね」「じゃあ、決まる条件がそろったら走ってもいいよ」。会話を繰り返すことで選手たちも質問するようになる。試合でもプレーに関わっていない選手がグラウンドの様子を観察し、気づいたことをベンチ内で話しあう空気も自然に生まれた。「試合に出ていなくても、チームに貢献できるようになります」。相乗効果は計り知れないだろう。
そして、何よりいろいろな練習に取り組んで、視野が広くなることで、野球に取り組む意識・意欲が向上してくる。ホームスチールを教えることの、本当の意味はそこにあるのではないか。勝田先生は、いちばん大事なものに気づくことができたことを喜ばしく思っていた。
かつての選手という立場から今は指導者になって、いろいろ経験を重ねてきた。振り返って今、自身が中学生だったときに戻れるとしたら、もっと指導者にこういうことを教えてほしかった、と思うことはありますか? そうたずねてみると、彼はこう答えた。
「一つひとつのプレーについて、結論だけでなく、そこに至るまでの思考過程を知りたかったです」
勝田先生には、チームの保護者会で毎年話していることがあるという。勝った負けた、打った打てなかった、という結果ばかりを見るのではなく、なぜそうなったのか(過程)を考えてほしい。これ(練習)を続けていくと、どうなるのかを考えてほしい--ということだ。
「体が小さくても、肩が弱くても、足が遅くても、プレーで貢献できるのが野球の素晴らしいところだと思います」
「だからこそ、野球を通して視野を広く、思考を深めてほしいと…。できた経験、できなかった経験、あと少し届かなかった経験…すべて生きるはずです」
人生はすべてが順風満帆にいくとは限らない(まして、今のコロナの状況をかんがみても)。勝田先生自身、今でこそ野球の指導にたずさわることができていないものの、現在の役割における実務などの経験はかならずや、将来に生きると信じて、日々の仕事と生活に取り組んでいるのだと思う。
その思いは、かつての教え子や、将来に彼から学ぶことになる子どもたちにも伝わっていくことだろう。
【Vol.015】
あの球童くんはいま(1)折霜孝紀(元白老中)
野球には神様がいる
およそ3か月ぶりのコラム更新となりました。これまで、指導者を中心に紹介してきましたが、今回は選手にフォーカスしてお送りしたいと思います。
折霜孝紀(おりしも・たかのり)選手は、北海道白老町出身の内野手。星槎道都大4年で、つい先日のプロ野球ドラフト会議で埼玉西武ライオンズの4位指名を受けた、駒澤大・若林楽人(わかばやし・がくと)選手とは小学校・中学校のチームメイトでした。2人は緑丘ファイターズ、白老中野球部でいずれも全国大会に出場しました(小6のときには全国3位)。
折霜選手に初めて会ったのは、全日本学童軟式野球大会(マクドナルド・トーナメント)のときでした。真摯で物静かな少年でしたが、秘めたる思いをプレーで表現するタイプの選手だという印象が残りました。
その約1年半後、僕は折霜・若林の2人と思わぬ場所で再会を果たします。少年軟式野球国際交流協会(IBA)の全国大会に、白老中1年のレギュラーとして千葉県にやってきたのでした。
--小学校のときに取材したのを覚えている?
「はい!」と答えた折霜君。「覚えていません」と答えた若林君は、マイペースな(今思えばプロ向きな)性格を感じさせました。
3回目に会ったのが、彼らが中3で出場した全日本少年軟式野球大会。横浜スタジアムの舞台にやってきて、先発のマウンドに立ったのは、エースの若林君ではなく、キャプテンの折霜君(本来はショート)でした。聞けば、若林君はヒジの故障で「投手としての全国はあきらめた」とのこと。
その後、高校野球に進んだ2人は別々の道を歩みます。若林選手は駒大苫小牧高校、折霜選手は父(忠紀さん)が監督を務める鵡川(むかわ)高校へと進みます。そして月日は過ぎて、彼らが大学卒業を迎えようという今年2020年。若林選手はプロへ。折霜選手はいつか指導者になりたいという思いを胸に抱きながら社会に出ていく決意をしている、と聞きました。折霜君のことを教えてくれたのは、白老中野球部監督だった太田秀蔵先生です。
白老中キャプテンとして横浜スタジアムのマウンドに立った折霜孝紀
チームは初戦で敗退したが、すぐに帰郷せずに大会をスタンドで観戦。手前が太田秀蔵先生、隣が折霜選手
折霜君の素顔について、教えてくれたのが、実はこの太田先生でもありました。横浜スタジアムの全国大会、1回戦で白老中は序盤の4点リードを守れずに逆転負け。1つのエラーが連鎖してしまい、スタジアムの雰囲気にものまれました。試合後、先発を託された折霜キャプテンは号泣しながら、「仲間や監督・コーチたちと3年間、一緒にやれて良かったです」と答えるのが精いっぱいでした。彼が立ち去った、その後を受けて、太田先生が折霜君について語ってくれたのが、以下の話です。
「とにかくストイックですね。心・体・技すべてにおいて充実した選手。僕は素晴らしいキャプテンに巡り会えました。
彼は技術より心の部分が素晴らしい。朝5時に起きて体操、ランニング、素振りとルーティーンをこなしています。一日も休まずに。その後、彼には弟がいるんですが、起きてきた弟の練習相手になるんです。そして学校に行ったら、朝練に取り組んで、昼は部室で副キャプテンと主将会議。選手たちに自発的に考えてほしくて、まかせているんですが、自分たちで課題を見つけて『先生、こういう練習がやりたいです』と提案してくれます。
放課後の練習が終わって、帰宅した後も自宅で自主練。これだけ野球で自分を追い込めるのはスゴイです」
最初に出会った小6のとき、2度目に会った中1の春は、彼の顔にはまだ幼さが残っていましたが、中3の夏に会ったときの彼の顔にはたくましさが滲んでいました。
これほど野球の申し子のようになれるのは、父親の教育の賜物なのでしょう。でも、それだけではなかったようです。
「少年団のときに悔しい思い(緑丘ファイターズで全国優勝できなかったこと)をして、それ以来、野球には神様がいる。神様にソッポ向かれないように頑張るんだ、という思いが強くなっていったようです」(太田先生)
自身が引退しても新チームとともに白老中野球部で練習を重ねた
僕はいつか、折霜君にじっくりと話を聞きたいと思いつつ月日は流れて、高校・大学での経験や思いも知ることなく、気がつけば卒業。その後、指導者になりたいとの思いを抱いていることを聞いたのです。その話を聞いて、選手としての折霜君をまだまだ見たいと思いつつも、なるほどなぁと納得したものです。それは、彼の内面から滲み出る人間性ゆえです。
これまで、折霜選手とは試合などを通じて、じっくりと話を聞く機会はありませんでした。ただ、中3の全国大会で初戦敗退となった後、チームはすぐに帰郷せずに大会を観戦していました。そこでは、メモとペンを持ちながらグラウンド上のプレーを見て熱心に勉強する姿がありました。
また、大会が終わった後、僕は白老中の練習を取材するために北海道を訪れたのですが、折霜君はじめ3年生は引退した後です。ところが、グラウンドには3年生でただ一人、折霜選手が後輩たちに交じって練習する姿が。聞けば、高校につなげるために、頼んで3月の卒業前まで部活動に参加することを認められたのだそう。
それは、自分のためであることだけでなく、後輩たちに自分の姿を見せたり、練習をサポートしたいという意図があったのだと思います。中学生のころから指導者となれる素養は十分にあったからこそ、自分の進むべき道が見えていたのでしょう。
いつか、彼と北海道で再会できたら、そのあたりを聞いてみたいと思います。
【Vol.014】
中学野球指導者列伝(3) 郡司 匡宏 先生
サッカーでも野球でも全力をそそぐ
野球部に練習法を解説する郡司先生。今や必須アイテムのホワイトボードもサッカーが元祖?
「小中学生に野球を教えるにあたって、野球の競技経験は、かならずしも問われない」のではないか。前回、柔道出身の松川武先生の例を取り上げたが、今回ご登場願うのは、サッカーを大学まで本格的にやっていて、自らも小中学生を教えることのできるJFA(日本サッカー協会)公認C級コーチングライセンスを保有するほどの指導者だ。教諭になって、もちろんサッカーを教えたかったのだが、やはり教員の宿命で野球を教えざるを得なくなった。
「実は私、野球大キライだったんです。アウトのたびにプツプツ止まるのが嫌で、サッカーの攻守の切り替えのほうが面白くて、好きで……。でも、今は違います。“その中(プレーが止まっている時間も含めて)に”たくさん詰まっている面白さ。以前はわかりませんでした」
今や、中学野球の指導者の間で知らない人は少ないかもしれない、その人の名は「郡司匡宏(ぐんじ・まさひろ)」先生。最初に出会った場所は、前任校の飯能西中学校(2013年全日本少年春季軟式野球大会に出場)だった。取材するチームが飯能西中と練習試合をやっていたからだが、郡司先生はすでに僕のことを知っていたようだった。その理由は、安松中の松川先生を取り上げた「熱血先生と100本のトンボ」(コラム Vol.012参照)だったというのだから驚きだった。
「あの記事がすごく良かったので」と郡司先生。そのとき、僕はあっ! と昔の記憶がよみがえった。千葉・八千代市の高津中に取材に行ったとき、嶺岸秀一先生と親しくなった。彼は桐蔭学園中、西中原中(神奈川)、松戸四中、昭和中(千葉)など関東の錚々たる強豪中と「Kリーグ」(語源は野球“キチガイ”だとも、野球を“こよなく愛す”ともいわれるが)というを交流戦を立ち上げていた。そのとき飯能西中もKリーグに参戦していたという。嶺岸先生に「飯能西中の先生も近藤さんのことを知っていましたよ」と聞いて、誰だろう? 知らないはずなのに、なぜだろう、とずうっと考えていたが、ようやく謎が解けた瞬間だった。
個人的な回想が長くなってしまったが、郡司先生と初めてお会いして、そのときすでに来年度は所沢市に異動が決まっていると聞いた。その異動先が、なんと松川先生がいた安松中と知ってビックリしたのだが。所沢には僕が親しくしている野球の先生がたくさんいた関係から、郡司先生からも相談を受けることになった。所沢といえば、埼玉県選抜の「埼玉スーパースターズ」を立ち上げた沼田芳行先生(所沢中など。現在は向陽中校長)の地元でもある。一生懸命に指導している先生は多いけれど、中学硬式野球に流れる選手も多いことが悩みだった。郡司先生は、まずはそこを改善したいと考えたのだ。
2014年から赴任した安松中。松川先生のコラムでも書いたように、この中学には“やんちゃ”な生徒が多い。松川先生時代はまだ、松川先生の体当たり指導が手なずけていたのだが、松川先生が中央中に移動してからの安松中は、やはり能力の高い選手が硬式に流れたようだ。
そこへ郡司先生がやってきた。野球未経験ながらも、前任校での実績は知られるところとなっていた。それでも、硬式に流れる選手は流れていく。しかし、その分、小学校で野球をやっていなくても、中学からでも真剣にやりたいという、真に野球が好きな生徒が入部してきた。経験がないからこそ、一生懸命学び、ひたむきに練習する。中学から始めても決して遅くはないことを、初心者選手たちは、野球未経験指導者と一緒に証明していった。
古巣・安松の勝利をたたえた松川先生
勝っても反省点は山積み。郡司野球はプロセスを重視する。選手もその意識を高めていく
その成果が早くもあらわれたのが、安松中赴任1年目の秋の新人戦だった。くしくも1回戦、松川先生率いる中央中と当たったのだ。野球未経験ながら野球に取り付かれた二人の指導者の激突。見ないという選択肢はないだろうと球場に足を運んだ。期待を裏切らない好勝負で、安松中が再逆転サヨナラという熱戦を制したのだった。試合に敗れた松川先生は、安松中の選手をたたえて言った。「おめでとう! ウチ(中央中)はやるべきことをやらなかった(サインを見落とした選手がエラー)から負けたんだ。だから野球は面白いんだよ」。
一方、安松中の郡司先生も「勝ったけど、まだ甘い。逆転されたのはなぜだと思う? 送りバントを空振りして、嫌な流れを自分たちで作ったからだよね」と、結果だけに満足せず、プロセスを重視することの重要性を選手たちに説いていました。一歩一歩、着実な成長を見守ることができる指導者だと思います。
安松中で2年目が過ぎたころ、郡司先生から相談を受けた。「近藤さんの知りうるなかで、市や地区レベルでスポ少と中学野球部が交流しているところはありますか? 単独チーム同士ではなく。所沢は硬式に流れる傾向が多く、安松中は改善されましたが、まだ他は……。市の軟式レベル向上へ向けて、所沢市野球の日(仮)のようなイベントを企画中です」
自分たちのことだけでなく、所沢市全体のことを考えて、小学生が中学校で野球を教わりたいと思ってもらえるような試みを企画していたのだ。僕が唯一知っている、千葉県野田市の小・中学校指導者懇談会のことを教えてあげた。そして、その年の秋から所沢市でも小中学校の交流会が立ち上がった。日程の重複の関係もあるため、僕はまだ取材には行けていないのだが、中学校に行けば熱心な先生たちが野球を教えてくれるんだよ、とアピールすることによって、各中学とも部員が増えたようだ。その成果もあって、所沢市代表も徐々に埼玉県大会で結果を出している。
さて本題に戻りたい。サッカー出身で、しかも指導者ライセンスまでもっている郡司先生が、なぜこれほどまでに野球にのめり込んでいるのだろうか。
「力の差があっても、試合の結果に直結しないのが野球。サッカーもバスケも、実力の差がそのまま結果につながることが多いものなのに」と以前聞いたことがある。
実際に郡司先生の指導を見ても、野球を経験していなくても教えられる、普遍的なことに気がつかされる。たとえば、サッカー用語に「ルックアップ」というのがある。ボールを足元で扱う競技のため、足元ばかりに注意が行くと、周りが見えにくくなる。視野を広く保つとともに、常に周りの状況を確認することが大事だということだ。「私は野球部の選手たちに“首を振れ”とよく、特に野手に対して言います。中途半端な(誰が捕るのかわからない)打球とか、お互いの位置関係を気にしながらやれと」(現実に、郡司先生の指導は野球雑誌に連載されていたほどに評価された)
「グラブは錘(おもり)」だから自然と体勢を低くするクセをつけよう
帰塁してもボールがどこにあるか、常に目を配らせることが大事だ
スライディングしたらすぐに立ち上がる。上体を起こすには体幹も鍛えなければならない
ある年の夏休み、僕は郡司先生の練習を見せてもらいに、友人の野球指導者と一緒におじゃまさせてもらった。本文に使われている写真はそのときの様子。印象的だったのが「グラブは錘(おもり)だ」という言葉だった。「打球(ゴロ)はグラブで捕るのではない。(重力にさからわず、グラブを低く構えたままだと)ボールは自然にグラブに入ってくるものだということです」。だから、「腰を落とせ」などと教えるより、よっぽど説得力があるのだな、と目からウロコが落ちる思いだった。
前述の「周りをよく見ろ」という言葉は、たとえば走者として牽制を受けて戻る練習シーンを見ると、ランナーの選手は一塁手が擬投する可能性まで考えて、投手に投げ返すまでの手の動きを注視していた。いかに“見ること”が大事なんだということが伝わった。
安松中6年目、郡司野球が実を結び、自身2度目の全国に近づいたのが2019年9月だった。全日本少年春季軟式野球大会・埼玉代表決定戦に進んだ。残念ながら、決勝で敗れ夢は叶わなかったが、安松中は部活動の指導ガイドラインを守り続けたうえで、全国まであと一歩に迫ったのだから、野球指導だけでなく教員としての責務も果たしたことは十分に評価していいだろう。
競技経験がないからこそ熱心に勉強する、選手と一緒にやってみる。指導の基本だ
つい先日、埼玉県中学野球連盟は、以前は「埼玉スーパースターズ」という名で通っていた埼玉県中学選抜の名称を「埼玉西武ライオンズ・ジュニアユース」という名前に改めるとともに、地元のプロ野球球団との連携をおこなっていくことを発表した。ジュニアユースとは野球界では耳慣れない言葉だが、サッカーのJリーグなどでは一般的だ。もしかしたら、命名者は郡司先生? 事の真偽はともかく、郡司先生は埼玉県中体連 野球専門部で競技部に所属し、埼玉西武ライオンズ・ジュニアユース第1期のコーチとしても関わるという忙しい日々を相変わらず送っているようだ。
ところで、郡司先生が本来抱いていたサッカー指導者としての夢だが、決して消えたわけではない。
「サッカーの指導もやってみたいです。野球やサッカーだけじゃなく、他競技の特性、文化、可能性には触れてみたいです。
むしろ、さまざまな競技を生徒にもやらせたいです。シーズンで選択制にしてみたり、曜日で種目を分けたり…。部活動の時間は学区を撤廃し、近隣の学校も含めて割り振ったり…。生徒と先生の持ち味を生かせたり、地域の人材活用にもつながると思います」
中学教師になって出会った野球の指導・普及・育成を発火点に、中学生を教える喜び・夢、中学生の無限の可能性にワクワクしながら広がる夢は果てしない。この夢が実現し、大きな波となっていくことを願っている。
【Vol.013】
中学野球指導者列伝(2) 松川 武先生
野球を教えるのに、定年なんてない!
2010年夏の埼玉県大会に進出した安松中野球部。後方の左に松川先生
小中学生に対して、野球を教える条件として、野球の経験のある・なしは関係ないのではないだろうか。そういうテーマで、今回からシリーズでお送りする。
埼玉県の所沢市の中学校に、グラウンド整備に使うトンボを自分で作って、他校の野球部のためにも実費制作で提供している先生がいる。そんな話を聞いて、取材に行ったのが、当時は安松中野球部の顧問をやっていた松川武先生だった。
そのときの安松中野球部といえば、ヤンチャで「何をしでかすか目が離せない」部員が多いことで有名だった。そんな生徒たちを扱うことにかけて、松川先生は適任だったといっていいかもしれない。
松川先生は野球選手ではなく、柔道を永年やってきた人だ。中学校の部活動顧問には、競技経験が考慮されないという慣習(?)がある。異動のタイミングで適任者がいないという事情もあるだろうが、松川先生が初任校で担当を命じられたのが、野球部顧問だった。もちろん、柔道部をもちたかったのが本音である。しかし、任された仕事をいい加減にやることは性格としてできない。一生懸命野球を勉強して、指導にあたった。
そのときの野球部は、能力や意識の高い選手がそろっていて、失礼ながら、松川監督が特別なことをしなくても県大会の決勝まで勝ち進んだ。結果は、優勝に一歩届かずに準優勝。
松川先生は、部員たちの前で頭を下げて、「優勝させてあげられなくて、すまない!」。すると、キャプテンは言った。「松川先生のおかげで準優勝できました。ありがとうございました!」。
松川先生の目から、ボロボロと涙がこぼれた。なんて、いい子たちなんだ! これは野球をやめられない。その日から、松川先生の野球勉強に全身全霊を注ぐ日々が始まった。以来、定年を迎えるまで野球部以外の部活動をもったことがないという。
防球ネットも松川先生独自の工夫による手作り
DIYショップで買った材料でトンボを作る
さて、トンボ作りの取材のために安松中を訪れたのが10年前だった。安松中のグラウンドには常時、100本のトンボが用意されていた。なぜ100本なのか? 「練習試合をウチのグラウンドでやったら、両チームの選手全員で一気にやったら早く終わるじゃないですか。20人ずつだとしても最低40本。あと、安松中にはソフトボール部もあるので、ソフト部のためのトンボでもあるんです」。松川先生はいつも目を輝かせて語りかける。実際にトンボを作る仕事風景も見せてもらった。少し傷んでも、部分修正をほどこせば長持ちするんだよ、と教えてくれた(今でも年3回ほどトンボ製作のオファーを受けているという)。でも松川先生は技術科の先生ではない。数学の先生なのだ。いかにも体育科のイメージだっただけに意外や、意外。
安松中エース・渡辺君は能力バツグンでも超ヤンチャ。松川先生が手なずけた
ある日、松川先生が僕の姿を見るなり、うれしそうに話しかけてきた。「近藤さん、あのね、聞いて! ウチの渡辺(エースでヤンチャの筆頭格)が変わったんだよ! 自分でマウンドを整備するようになって」。たしかに、あの眉毛がない強面の渡辺君の顔つきが最近変わってきた。ようやく野球選手としての自覚が芽生えてきたのだろう。試合前に頑張れよ! と声をかけると、うつむき気味だが丁寧に礼を返してきたこともあった。すべては、松川先生の熱血指導のたまものだろう。「いや、これは練習試合で相手してくれる他校の先生たちが、厳しく叱ってくれたからなんですよ」。部活動の長所の一つでもあるのだが、まわりの大人たちも含めて子どもたちは教えられる、ということでもあるのだろう。
松川先生の最大の魅力は、いつでも、穢れ無き子どものように「何でもやってみる」「結果を恐れない」という純心にあるのではないかと今でも思う。
松川先生は、その後所沢市立中央中勤務を経て、昨年に定年を迎えた。今は、フリーの中学教諭として数学を教えるだけでなく、生徒指導も任される日々だという。彼から、生徒の指導を取り上げてしまうのは気の毒だ。ただ野球を教えているのではなく、中学生を教えているのだから。
だから、このコロナ休校に伴う自粛期間は、松川先生にとって拷問のようなものだったのかもしれない。「人と会わないことがこんなにも苦痛であることを痛感しました」と、在宅勤務中に思いを伝えてくれた。
休校が明けて、おそらく水を得た魚のように活動しているだろう。僕も、また会える日を楽しみにしている。
【Vol.012】
プレーバック・2014全国中学校大会
徳島の夏空に輝いた中学球児たち
第36回全中の決勝戦。仙台育英秀光中 .vs 中標津中。ともに初優勝をかけて戦った
記憶に残る全国大会--中学編は学童と同じ年の2014年、徳島県でおこなわれた「第36回全国中学校軟式野球大会」(全中)です。この大会は僕が初めて取材した全中で、大会1日目から4日目の決勝戦まで全日程を追うことができました。徳島でおこなわれたからこそ実現できた大会取材。全中開幕日の前日、サッカーの取材で同じ徳島(鳴門市)を訪れていたからです。そして、大会最終日にはまた横浜に戻ってサッカーの取材。大会スケジュールが見事その間にハマってくれたわけです。
さて、この徳島全中はその後、高校に進んで甲子園でも活躍した選手も多く出場していました。熊本・八代第一中の森田晃生(その後、文徳高校)、秋田・桜中の長谷川拓帆(仙台育英高校からTDK:今年のドラフト注目選手)、新潟・直江津中の山本雅樹(中越高校で甲子園出場。現在は桜美林大学)。そしてプロに進んだ選手もいました。仙台育英秀光中の西巻賢二(仙台育英高校から楽天-ロッテ)です。
キラ星のごとく将来のスター選手が集った大会。しかし、僕の担当に割り当てられたのはメイン会場ではなく、徳島市のJAバンク徳島球場でした。仙台育英秀光中も神奈川・大沢中も千葉・印西中も別会場でしたが、この徳島球場では素晴らしいチーム・選手・ゲームに出会うことができました。代表的な3つの中学校を印象に残るサヨナラゲームとともに紹介しましょう。
玉城中学校(三重)
父と兄弟の「二人三脚」で成し遂げた全国1勝
この徳島の全中が開幕する前の1週間は、東京で全日本学童軟式野球大会(マクドナルド・トーナメント)がおこなわれていました。そのマクドナルドには、三重県の名門チーム「JBC玉城」も出場していました。JBC玉城の高口一彦監督には双子の息子たちがいます。玉城中のエース&主将の高口翔斗(弟)、サードの高口廉矢(兄)の二人は3年前の小学6年時に挙げられなかった全国1勝を、この徳島で挙げることができました。
◎大会2日目 第1試合
駿台01010000 |2
玉城20000001×|3
玉城中が延長8回、サヨナラ勝ち。一番・山本颯馬が三塁打で無死三塁とすると、駿台学園中(東京)は先発・中西から宮路(センター)に代える。その初球を二番・大田陸翔がセカンドゴロ。エンドランが決まった。
殊勲打のスリーベースを放った山本は、サヨナラのホームを踏むと、駆け寄った主将・高口翔斗を大きな体で受け止めて抱き上げた(写真・上)。「練習のときから当たっていたので、今日は打てると思っていました」
この山本颯馬(その後、津商業高校へ)は珍しい、左投げ右打ち。話を聞くと、「小3のときに(ピッチャーをやって)右肩を壊して、左投げに変えたんです。左投げの練習は相当やりました。腰の回転が打つときと違うので、バッティングにも影響しましたが…」
先制点は1回裏、山本(颯)が二塁打、大田の犠打、三番・高口(翔)のセーフティースクイズ(一塁手のグラブトス間に合わず)が決まる。四番・中村四球のあと、五番・高口廉矢のライト前ヒットで2点を上げた。
○高口翔斗
「調子はあまり良くなかった(それでも8回を無四球)んですが、後半調子を上げて…。そこはキモチで。みんなと長くやりたいので、必死に耐えろと監督さんに言われました」
○高口廉矢
「小学校で全国勝てなかったのでうれしいです。お父さんはウチではやさしいです。野球のことではコワイけど。遊びに連れて行ってもらったこともないです」
スタンドで応援していた父・一彦さん、母・広子さんもご満悦。「オヤジの好きな野球に、よう付き合ってくれた。感謝しています!」
高口兄弟はその後、そろって松阪高校へと進んで、「小中高のグランドスラム(全国大会出場)」を目指したが、惜しくも届かなかったようだ。
サヨナラ勝ちで「全国1勝」をもぎ取った玉城中。中央が高口主将。その右が山本颯馬
直江津中学校(新潟)
スーパースターはいなくとも
今大会で最初に出会った魅力的なチーム。それが上越市立直江津中学校でした。大会1日目、第2試合。開催地・徳島県代表の坂野中を9対1で破ると、別会場でおこなわれた2回戦は岡山県代表・岡北中を下して、大会3日目。僕の担当球場である徳島球場にふたたび戻ってきました。
直江津中は新潟県の南部にあたる上越地区(北から南に降りて行くにしたがって、下越・中越・上越と呼ぶ。京都に近いほうが上?)の一部、かつては直江津市と呼ばれていました。日本海に面していて、生徒は皆元気で明るい“浜っ子”だといいます。この直江津中に、かつて二人のスーパースターがいたのです。現・横浜DeNAの飯塚悟史、法政大から現在はJR東海に所属する鎌倉航のバッテリーです。2014年当時は、彼らが日本文理高校のバッテリーとして甲子園で活躍していたこともあって、地元から新潟日報も取材に来ていました。
だが、このときの直江津中にはスーパースターは一人もいませんでした。飯塚選手らが卒業した翌年に着任した飯塚教裕先生(親戚関係にはないそうです)によって、徹底した攻撃パターンを身につける練習と、県外を含んだ強豪との練習試合を多く積むことによって、誰が出ても同じ野球ができるチームに仕上がってきたのです。
◎大会3日目 第1試合
八代一100010000 |2
直江津101000001×|3
直江津中が延長9回、八番・笠原圭(上の写真・左)が1死二塁から右中間を破るサヨナラつーベース。準々決勝を突破して、同日第3試合の準決勝に進出した。エースの島田拓実(上の写真・右)は2試合連続の延長戦を完投勝ち。2年生の四番・山本雅樹にもようやく、先制打を含む2安打が飛び出した。
○山本雅樹
「軸(後ろ足の右ヒザ)ができていなくて、前に突っ込んでいました。そこを今日はずっと意識していました。自分はまだ2年ですが、四番なのでチャンスはたくさんまわってきます。プレッシャーに負けないよう頑張ります」
○澤谷 勉(一番打者として2盗塁)
「(足を痛めて途中交代)痛めたのは両足のふくらはぎ。今テーピングしていますが、最後の方はきつかったです。(1回戦は3打席3盗塁)足の速い大平(勇気)、五十嵐(裕太郎)と僕の3人は足でかき回す役目を担っています。行けたら行っていい、と言われています」
○笠原 圭(キャプテン)
「バントを2球見逃して追い込まれたんですが、次の1球を外角に外してきたので、ヤマは張っていないけれど内角来るかなと。思いきって引っ張って、抜けて良かったです。来たコースに逆らわず、何も考えないで。
島田はけっこう疲れていたけど、気迫が勝っていた。昨日の相手も今日の相手も地区の1位(自分たちは地区2位・県は3位)でしたが、意識しないで戦いました。
澤谷は県大会から足が悪かった(痛かった)。チーム的には走塁のかなめ。走ってアイツがアウトなら仕様がないというくらい信頼感を置いています。
四番の山本は最近当たっていなかったけど、今日は打って僕も嬉しかったです。四番は返してくれるというイメージ。一本頼むぞという期待感をもっています」
「新潟県大会で3つ勝って北信越大会に行くことができました」「北信越でも3つ勝って全国大会に行くことができました」「全国でも3つ勝って全国4強に入ることができました」
飯塚教裕監督は、上部大会へ進むたびに、こう言って生徒や保護者たちに感謝の言葉を述べた。県は第3代表、ブロックは準優勝。1位で勝ち上がることは一度もなかったが、一歩一歩上り詰めた。
3年前には飯塚悟史-鎌倉航(現・日本文理高)のバッテリーを擁しても県の壁を敗れなかった。翌年から赴任した飯塚監督は「毎年、彼らのような選手が出てくるわけではないので」と、3年間の育成を指導方針とした。
そのために県内外の強豪校と練習試合を積極的に組んだ(現チームは公式戦含め約170試合)。上級生だけでなく、下級生の試合も組み、遠征一回につき4試合はこなした。
豊富な経験が試合度胸を育み、実戦で試した多彩なバント、エンドラン、走塁の数々が武器となった。特にバントにはこだわり、短い時間でも集中して毎日取り組んだ(注:キャッチボールが終わったら集中して15球。3人一組でバント・セーフティバント・セーフティスクイズ。ライン際を狙う練習=選手の証言より)。
「誰が塁に出たら、次はこういう作戦を、という得点パターンは身についていました」と指揮官。
スーパースターは不在でも、選手の数だけ経験値は積み重なり、全国の大舞台でも大きな力となって結実した。
*
以上は、当時の野球雑誌に書いた自分による直江津中の記事です。その翌年、僕は飯塚先生を訪ねて、上越市を訪れました。飯塚先生はくしくも、全国4強を果たした翌年度に直江津中を離れて管理職に就きました。野球部の指導は現在にいたるまで、おこなうことができていません。しかし、野球指導への情熱を忘れてはいません。大会終了後、自身の3年間の直江津中での取り組みを一冊の本『夢の実現へ--直江津中学校野球部 全国大会3位までの軌跡』にまとめています。勝つためのチームづくり、マネジメントについて綿密に書き上げられています。素晴らしい蓄積を、またどこかで、いつの日か、生かしてもらいたいと思います。
最後に、当時の直江津中選手たちの現在について。いまも野球を(硬式として)本格的に取り組んでいるのは、島田拓実(現・福井工業大学)、山本雅樹(現・桜美林大学)の2人でした。
中標津中学校(北海道)
守って打って、最後に勝てば「いいんでないかい?」
最後にご紹介するのは、僕の故郷・北海道の代表にして、今大会の準優勝校。中標津町立中標津中です。この名前を一発で読めた人は、相当な北海道ツウです。徳島球場のボールボーイを担当していた地元の中学生も「アレ、何て読むんだ? なかひょうつ?」。横にいて写真を撮っていた僕は、すかさず「なかしべつ、と読むんだよ。北海道は難しいよね。僕も徳島の地名で読めないのもあるから」と教えてあげました。
その中標津町ですが、北海道の東側、知床半島と根室・釧路地域のちょうど中間に位置しています。すぐ隣の別海(べっかい)町はかつて「日本一面積の大きい村(当時)」として有名でした。とにかく広大な土地なのです。僕はおもに札幌に育ちましたが、行ったことなくても、北海道のどの町でも愛着を感じます。そして、この大会でもずっと注目し、応援し続けました。
◎大会2日目 第2試合
桜 0000000002 |0(2)
中標津0000000003×|0(3)
中標津が粘り勝ちで、特別延長の逆転サヨナラ勝ち。桜(秋田)は2試合連続の0-0からの特別延長だったが、敗れてしまった。
前日の試合で、ノーヒットピッチング、三振を量産した桜の左腕エース・長谷川拓帆は、この日も6回1死までヒットを許さず。初ヒットを許した二番・佐藤匡哉は巧みな一塁けん制で殺す。7回にも五番・山田賢太(投手)に打たれるが、またも一塁けん制で刺す。この日の奪三振は9回まで13だった。
中標津の先発・山田もヒットは打たれるが、後続を断って得点を許さない。二塁に走者を進めても、セカンド・ショートのけん制で、刺せなくても、三塁を狙わせない攻撃的なディフェンスが光った。
特別延長10回。中標津は、ここで投手を山田から、ショートの佐藤眞那人にスイッチ。いきないノースリーとするが、遊撃に回ったエース・山田のサインで助けられる(八岡監督コメント参照)。アウトにはできなかったが、その後の三振と三塁走者の飛び出しで2死。だが、続く遊ゴロを山田が悪送球し1失点、さらに佐藤(眞)の暴投で2失点。それでも、まったく動揺は感じられなかった。
10回裏、中標津の先頭は山田。1-1からの3球目、低めのワンバウンドを空振りするが、これを捕手が後逸。ファウルではないかとの異議も認められず。まず1点を返すと、2-2から山田のエンドラン(二ゴロ)で同点。そして、六番・草川義起はスクイズを決めて、サヨナラとなった。
山田(ショート)がマウンドの佐藤(眞)にサインを出しながら檄を送る。二塁けん制と思いきや、虚を突いて一塁けん制!
佐藤(眞)はノースリーから三振を奪って、その直後に飛び出した三塁走者を捕手のけん制とランダウンプレーで併殺とした
好投しながら敗れた桜中・長谷川
最後は中標津得意の粘りでサヨナラ勝ち
○中標津・八岡純治監督
「もともと、ウチはこういう試合展開が多いチームなんです。『最後に1点取って勝とうね』という。だから、ぜんぜんあせっていなかった。僕がタイムとる必要もなかった。ガマン比べで、ガマンできなくなったほうが負けるという試合でした」
--セカンド・ショートが二塁けん制に入る動きが非常に目立った。アウトにできなくても、二塁走者を止めたのが、効いたのかな
「そうですね。あれは、あの子たちが相当こだわっているところ。サインを出すタイミングとか。あの子たちのほうがよくわかっています」
--特別延長で、投手が佐藤眞、ショートが山田。そこで突然一塁にけん制しましたね(写真)
「それはたぶん、ノースリーになって、打者は四球で押し出しか? という雰囲気になったので。バッターに集中するという状況で(相手の虚を突いて)、一塁走者を刺しにいったと思う。(うまくいけば)1死二・三塁にするという狙い。
ウチは地区予選から、特別延長が多かった。3度ほどありました。12回やっても0-0という試合もあった。平常心。精神力はものすごく強い子たちです。
中標津は全中は初だけど、全日本(春)は2011年に1回出場しています。それは、前任者の楓川(もみじがわ)卓也先生のとき。
僕は中標津に来て2年目。楓川先生とは1年一緒にやって、バトンタッチしてくれた。僕が教えなくても、選手たちはわかっている。ほとんど任せています」
○山田賢太(投手①)
「注意するバッターは、一番・三番・四番なので、フォアボールでもいい、カウント球を多く投げてもいいので打ち取る。打ち取れなくても、ワンヒットならいい。長打だけは打たれないように。
楓川先生には、1・2年のときに教わりました。
細かいけん制だったり、走塁、きょう殺プレー。こだわる野球です。
10回裏のエンドラン。叩くバッティング、結構やっています」
○佐藤眞那人(遊撃⑥)
--セカンドけん制へのこだわりについて
「ツーアウトなら、ヒット一本で帰ってしまうことがあるので、返さないために。練習どおりにできました」
--10回の投球。いきなりノースリー。ショートの山田君が声をかけながらも、サインを出していた。そこで、なぜか一塁にけん制した
「山田に助けられました。あれで少し気持ちが楽になって、ストライクも投げられるようになりました。
打てないことはいつものことなので、細かいことにこだわった結果、それが勝ちにつながったので良かったです」
*
いっぽうの敗れた桜中も、エース・長谷川拓帆をはじめ素晴らしい戦いを見せてくれました。
◎桜中・佐々木博文監督
「長谷川君は、真っすぐで強気に押して、押し切れると思ったら、どこまでも押していくタイプ。今日は変化球が少なかったけど(緩急を使えれば、また違っていたかも)。まだ7、8割の力でしか投げていない。野球だけでなく、情熱や向上心など、成長するのに必要な要素はすべて備えている選手。
残念だけど、持てる力は全部出したかな。客観的に考えると、(桜中の)三・四番はスタンドまでもっていく力はあるけど、それ以外の選手は打てない。そういう選手が徹底してゴロを打つとか、バントを決めて勝ってきたチームだが、昨日今日はフライが多すぎた。
でも負けるとしたら、こういうゲームだと思った。エラーしたり、打たれまくって負けることはないと思っていた。
私は秋田高校出身ですけど、軟式野球部出身。硬式は逆に知らない。軟式はしっかり守れることが基本。弾むボールが多いので。バウンドするボールの捕球は、軟式のほうが難しいですから。秋田県の子はほとんど軟式出身。
2時間半くらいしか、練習時間がない。ウチは厳しい。朝練習も禁止。なるべく早く授業を終わらせて、練習の準備。練習の質を上げようとやってきた。守れるチームを作れば、全国でも点は取られないことを証明できた。
いろんなキャッチボールをやる。クイックスロー、ボール回しは新チームになったら必ずやります」
◎長谷川拓帆(投手)
「しんどかったけど、ピンチも含めて楽しめてやれました。
3年の春にヒジを痛めて、投げられなかったとき、走り込んで下半身が強くなった。夏の大会が始まるころに復帰しました。
小学校からのメンバーが多くて、お互いに分かり合えている。最後まで楽しめたけど、もっと楽しんでやりたかった」
すっかり北海道人になった中標津中・八岡監督
左・佐藤眞那人、右・山田賢太。いまは二人とも野球以外の競技に取り組んでいる
中標津中は“不思議な強さ”をもって、ついに決勝戦まで勝ち進みました。桜中を破った後は準々決勝で、前述の玉城中、そして準決勝で同じく前述の直江津中を同日の破ったのでした。選手たちにずば抜けた身体能力があるわけでもありません。打たれるときは打たれるし、エラーすることだってある普通のチームです。
そんな“不思議な強さ”の秘密は、試合を通して観戦しているうちに、だんだんわかってきました。その秘密を大会後の記事にすべく、準決勝が終わった直後の八岡監督に聞いてみたのが以下の話です。
「野球で徹底していることは、走塁のリードでプレッシャーをかけること。それは絶対。それから、進塁打を心がけるということを徹底してやっています。叩くということを今年はテーマにしました。
打撃のモードの切り替えということで、速い球を打つモード、転がすためのモード。完全に分けて考えるんです。そういう練習をしています。ランナー三塁の場面で、高いバウンドの打球で1点を取る。そのほうが確率は高い。
ただ、指導者によっては、いろいろあるとは思うんですが。でも、バッティング自体も教えているので。ランナーに出塁するためのバッティング、ピッチャーを崩すためのバッティングも教えています。
バントですが、実は、春先にこのチームはセーフティーバントに頼りがちなところがあったので、もう少しきちんと送ることをやろうと。(転がす前に走り出したり)本当に自分が死んでも転がすという犠牲バントができていなかった。だから、毎日バントの練習をしていました。
4月になって、試合が始まり、いざ送るとなったとき、送りバントができなかった。で、毎日徹底してバントの練習をしました。基本的な構えは、開かないで、右打者は左足を前に出す構え。打つときは必ず、左足を踏み込んで打ちに行く。左足を開いたまま打つことはないので。
ウチのテーマは「ツーアウト三塁をつくろう」。ワンアウト三塁にはこだわらない。最後に(ヒットを)打てばいいでしょうということ。ツーアウト三塁を作ることがノルマ。(打てなくて)そこでチェンジでもOK! 相手にダメージを与えて、イニングを終わる。その切り替えですね。ワンアウト二塁だったら、転がしてツーアウト三塁をつくればいい。
中標津は、全日本予選は決勝で負けている。背番号6の佐藤眞那人が投げたんですが、最終回、突然乱れました。2-0で勝っていたが、2-5で敗れたんです。彼を信頼していたので投げさせたんですが、結局もどらなかった。フォアボールばっかり。そんな彼を見たことなかった。そこからですね、彼も努力して一生懸命投げ込みしました。選手たちには、僕の采配のミスと言いました。切り替えて、「ただ、これが最後(の大会)じゃなくて良かったね」という話をした。で、今日の彼があるんです。
もともと、おとなしいチームでした。前任の楓川先生とも話していたんですが、彼らは表現しないよねと。だから、しゃべらせようとした。試合の中の会話を大切にしたわけです。楓川先生もそうだが、僕もそういう考え。遊んでいるような会話でいいんじゃない? たとえば、お前、今日調子悪いのかという話でいい。大人の草野球で全国に行くようなチームは面白い会話をしているんですよ。お前ダッシュ遅いなとか。仲間内で面白い野次、励ましとか、それを練習のときからやろうと。だから、(ピンチでも)動じないと思うんです。誰が中心と言うことはないですね。
--試合を見ていても一塁コーチャーの声がけがいいですね。「外野が前に来ているぞー」とか
あんまり、バッチこーいとか、言わせないようにしているんです。意味がないので。だったら、レフト行くかもよーとか、守備もっと後ろじゃない? とかいう会話をしたほうがいいと僕は思います。春先から夏にかけて、会話できるようになってきたので。いま、選手たちに本当に任せています」
この大会で八岡先生と直接話したのは、このときが最後になりました。翌日の決勝は最後まで見ましたが、すぐに東京に帰って次の仕事にそなえなければならなかったからです。
決勝戦は、0対3というスコアほどには力の差を感じなかったものの、中標津中は仙台育英秀光中に敗れて準優勝に終わりました。試合終了後、「準優勝も、1回戦で負けるのも一緒」というコメントをベンチ脇で耳にしました。試合中、ホームでのクロスプレーで自分たちに辛いジャッジがあったことを問われても、「審判が判定したことはくつがえらない。僕が抗議に行かなくても、選手たちは何も言いませんでしたし」といさぎよかったのが印象的でした。
時は流れて6年。
新型コロナによる非常事態宣言が解除されて、久しぶりに、中標津にいる八岡先生に電話しました。あのときの選手たちの消息も教えてもらいました。
エースの山田賢太君は、高校からラグビーを始めて大学生の現在も続けているとのこと。ショートの佐藤眞那人君は札幌第一高校に進んで、甲子園の選抜大会にも出場しました。現在は東京の大学でアメフトをやっているそうです。
キャッチャーの森大悟君は中標津高校から札幌学院大学に進んだ現在も硬式野球部。ファーストの高清水匠君も同じチームで野球をやっています。
キャプテンでセカンドの佐藤匡哉君。大学では軟式野球部に所属しながらも、地元(釧路)の硬式野球クラブでもプレーしているとのことです。
「うれしいことに、みんな、いまでも時々中学校に遊びに来てくれます」
そんな八岡先生も、中標津中野球部で今も頑張っています。実は、彼は北海道出身ではなく、愛知県の出身。北海道の教育大学を卒業して、北海道で教員になることを選んだ人なのです。
「ああ、もう北海道大好きですね。地元に戻る気はないです」
中標津町では新型コロナの感染がほとんど聞かれていませんが、全道的・全国的な自粛がようやく明けたのは同じこと。中標津の所属する根室地区でも、来月から徐々に大会を始めていく予定だとのことです。(了)
【Vol.011】
忘れられないあのチーム(2)柏球友会
中3の野球を止めるな!
ついに「甲子園」(夏の全国高校野球選手権)の中止も発表された。すでに、小・中学校の全国大会も中止となっているが、「日本一を目指す」ばかりが野球をやる目的ではないだろう。大事なのは、これからだ。上のステージ(小学生なら中学野球、中学生は高校野球)へ行っても「野球がやりたい」という生徒のために、指導者を含めた大人たちが環境をいかに整えてあげられるかである。
*
「中3の野球を止めるな!」
このスローガンのもとに、千葉県柏市では、夏に中学野球を引退した3年生のために、高校野球への道標をつけてあげようという活動が今もおこなわれている。その名は「柏球友会」。中学までは軟式球を使用しているが、高校からは多くの野球部が硬式野球に移行する。この柏球友会では、硬式球の性質に近いゴム製の「Kボール」を使用することで、徐々に硬式野球に慣れさせていくという趣旨で合同練習会や大会に臨ませている。柏球友会は11月まではKボールで、12月からは硬球を使って練習をしている。現在の柏球友会では、中学の硬球のクラブチームとも交流戦を組んでいるようだ。
この「柏球友会」を立ち上げたのが、中学野球普及・育成の仕掛け人とも言われる片山久和先生だ。定年退職後6年を経過した現在でも、非常勤として教壇に立つかたわら、柏球友会の活動にも携わりつづけている。中学野球を盛り上げるためのアイデアが常に豊富で、何か思いつくたびに「こんなこと考えたんだけどさぁ~」と、むじゃきな笑顔で話しかけてくる。
柏球友会
「アイツも頑張っているんだ」仲間を思いながら
柏の中学野球は片山先生なくして成り立たない
柏球友会について、初めて片山先生を取材したのは、もう12年くらい前のことになるだろうか。グラウンドでボイスレコーダーを向けると、「何これ? カッコいいじゃない!」と子どもみたいな笑顔で対応してくれた。
「中学3年生でも卒業前まで野球をやりたい子がいるけれど、そうすると(自分たちのチームでは)1・2年生の練習のジャマにもなる。そういうような子に少しでも環境を整えてあげるのが大人の仕事だから、そういうことを始めたんですね。
柏には選抜チーム(ALL柏)があって、1・2年の育成は計画的にやってるけど、それも夏(Kボールの全国大会)までで、場合によっちゃ5月くらいで(地区大会の敗退で)終わっちゃう場合もあるんだけど。総体終了後の3年生の野球を保証していこうというのが目的です。高校の先生方もすごく即戦力になる場合があると言うから。即戦力というのはちょっと言い過ぎかもしれないけどね(笑)。やっぱ、やっててくれたほうがいいみたいだから」
--高校野球で通用する一番のポイントとは何だと思いますか
「まあやっぱり、昔の言葉で言えば“根性”だよね。やっぱり皆やめたくなるらしいからさ。そのときにどうするかということだよね。やっぱり、こういうところ(柏球友会の練習)でやってることで『アイツも頑張っているんだろうから』っていう仲間がいればさ、上に行っても伸びるんじゃないかな」
--実際に引退してから高校に入るまで、長いと半年以上も野球をやれないわけですね。柏球友会では練習に臨む前は、勉強もしっかりやるという方針だということですが、野球もやりながらのほうが勉強にも身が入ると?
「オレはそう思うよ。折橋なんか、いい加減に見えるけどムードメーカーだしさ。野球は楽しいんだよという雰囲気をアイツが醸し出しているよね。だけど真剣にやろうっていうものも出さないと。走って、くたびれちゃった、っていう。やっぱこういうことが球友会の本当の目的かもしれないな。(ウォーッという威勢のいい声が聞こえてきた)あれ、折橋だよ(笑)」
柏球友会
自分が主役でなくても自分の立ち位置を見極める
ボールボーイとして審判の片山先生にボールを渡しに行く折橋少年
すかさずバックネット裏のカメラに向かってピース! 目立ちたがりというかサービス精神旺盛だ
ということで、練習後に紹介してくれた選手たちにも話を聞くことができたので、その様子も再現したい。
片山「おい、お前らに聞きたいことがあるってさ」
折橋「うわっ、これ(ボイスレコーダーを見て)麻生首相(当時)の記者会見の机の上に置いてあるヤツですか?」
ボイスレコーダーを見たときの反応が、片山先生と一緒なので思わず笑ってしまった。
折橋「いやぁ、ボク、ジャイアンツに入って4番を打とうと思っているんすよ」
ふむ。彼は、なかなかのビッグマウスでもあった。
--まあ、君たちが将来、高校野球を経てプロ野球選手にもなるんだったら、インタビューも受けなきゃいけない。そのときに、ちゃんと話せるように、今日は取材を受けるためのトレーニングと言うことで
折橋「こっちから、雰囲気をつくりましょう」
--球友会の活動を紹介するに当たって、参加している君たちの意見もここに載せたい
折橋「そうっすねー、まあ引退して、高校始まるまで何ヶ月ぐらいあるかな。半年ですよね。半年体を動かしてないのと、動かしてるのとでは、高校に上がってからずいぶんと差が(軟式と硬式のね)そうっすね。やっぱり慣れということも必要だし、3日体動かさなかったらなまっちゃうし、はい」
--実際、ここに練習にくるまでの1週間は、ちゃんと勉強してるんですか?
折橋「勉強は…、そこはちょっとコメントを控えさせていただきます(笑)」
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と、まあ、こうしたやり取りを中学生と交わした思い出もなつかしいのだが、なんと、この折橋少年とは時を経て「Facebook」で「お友達」になってしまったのだから面白い。折橋勇飛(おりはし・ゆうひ)君、いや社会人だから折橋さんと呼ばなければいけませんね。折橋さんは、市立柏高校(同期に宇佐見真吾=日本ハム、森和樹=元巨人)から国士舘大学を卒業して、現在は社会人5年目になるという。中学野球からなにを学んだのだろうか? オンライン・インタビューで折橋さんは答えてくれた。
「ご紹介いただけるような中身のある話かどうかは分からないのですが、中学時代の想い出といえばオール柏(選抜チーム)でKボールの全国大会に準優勝したことです。
私は小学生の頃も柏選抜メンバーで、当時のチームメイトとは中学の柏選抜でも一緒になりました。
優勝は逃しましたが、全員仲良しだったので、良い仲間と最後まで一緒に野球できたのは良い想い出になっています。
当時のメンバーは大卒で社会に出ていると5年目のシーズンになると思いますが、何処と無くチームワークを意識して育ってきていますので、その辺りは会社組織で生かされていると思います。
私は自チームでは主力、中心でプレーしていましたが、選抜チームともなると脇役に回らざるをえませんでした。それでも、与えられたポジションで、自分の立ち位置を見定めてどのように振る舞うかは、野球だけでなく仕事ににおいても重要だと思います。
こんなことが今の中学球児にお伝えできることでしょうか?」
柏球友会
あれから12年たっても「仲良しチーム」
「社会人になっても仲良しチームです」という、2008年第8回AA全国中学生KB野球選手権大会準優勝のメンバー(監督・堀井則幸先生、代表(選手強化部長)萩原(はぎはら)義則先生、コーチ・白坂琢先生)。折橋さんをはじめ、梅田龍一君(現・大手不動産会社勤務)、廣田一徳君(現・大手物流会社勤務)など錚々たる顔触れは、いまや社会の第一線で働いているという。
「社会人になる前に一度飲み会をしました。また飲み会で今のみんなの話を聞いて吸収したいです」(折橋さん)。早くその日が来ることを祈ろう。
野球はチームスポーツ。何より「仲間」の存在が大きな力となる。今の厳戒態勢が解除され、徐々に野球活動も再開されるだろうが、その際に元通りにノビノビと、チームワークを駆使した野球が見られる日を待ち望みたい。この12年前の「柏球友会」メンバー達のように。
柏市の選抜チーム「ALL柏」は2年秋にセレクションを経て結成され、千葉県内の大会で強化を重ねて、チームとしては5月のKボール千葉県大会、勝ち抜けば8月の全国大会(伊豆開催)まで活動は続く(軟式野球連盟の全日本少年大会の予選には参加しない)。残念ながら、今年の選抜チームの活動は終わってしまったが、秋以降に予定されている「柏球友会」の活動に期待したい。全国への道は途切れても、彼らの野球は続くのだから。そう! 「中3の野球を止めるな!」である。
【Vol.010】
忘れられないあのチーム(1) 宮ノ陣フラワーズ
たった一つの、一人ずつの花
全日本学童軟式野球大会(マクドナルド・トーナメント)など多くの全国大会の中止が発表になっています。一日も早く通常の生活に戻れるよう祈りつつ、過去に取材した全国大会の思い出を紹介したいと思います。
*
僕が学童・中学を通じて、初めて全国大会の取材を経験したのが今から10年前の2010年のこと。全日本学童は前年から、開催地を茨城・水戸市から東京都に移していた。小学生の甲子園は、プロ野球・大学野球でも使用する明治神宮野球場などに変わっていた。
「私のオススメチームは、宮ノ陣フラワーズです!」
前年の2009年に佐賀県代表として全日本学童に出場した「三根西少年」(現・三根ボーイズ)の永田文隆監督(コラム Vol.005~006参照)が勧めてくれたのが、福岡県代表の宮ノ陣フラワーズだった。三根西の地元・佐賀県みやき町と、宮ノ陣の地元・福岡県久留米市は隣同士ということもあり、両チームには深い交流があったのだろう。
宮ノ陣フラワーズ
全国大会でも普段通りの野球を貫いて
エース・主将としてチームを引っ張った大庭樹也(現・専修大)
大会1日目。大田スタジアムでおこなわれた全国初戦を勝利で飾った宮ノ陣の本山直樹監督に声をかけた。三根西・永田監督の知り合いですと伝えると、本山監督はこう言った。「九州では“火の出るごつ、気合ば入れろ”と言うんですが、永田監督の仕事(消防局勤務)は“火を消すこと”ですよね」。柔和な笑顔で気の利いたユーモアを披露してくれた。優しそうな人柄とは裏腹に、野球は厳しい指導振りがうかがえた。
「ここ(全国大会)まで来て大事なことは、余所行きじゃなく、いつも通りの野球が出来るかということです」。宮ノ陣は初戦を6対0で勝ち抜くと、続く2回戦は17対6と大勝。バッティングのチームと思いきや、モットーは「1点を取って守る野球」だという。やるべきことをやっているからこそ、徐々に緊張が取れてノビノビ点が取れたのだろう。チームには大柄な選手が多いわけではなく、小柄な普通の小学生ばかり。ただ一人目立っていたのが、エースで主将の大庭樹也(その後、大分・明豊中から明豊高。現在は専修大4年)だった。フラワーズは大庭中心のチームだと、本山監督も認める。「でも素顔は普通の小学生です。野球になったらスイッチが切り替わる。走攻守何でも出来る。逆に出来てしまうから、細かいことを気にしすぎるところはありますけどね」。
宮ノ陣フラワーズ
突然の監督帰郷にも動じず無欲の決勝進出
九州対決の準決勝を制して、ついに決勝進出(右は渡辺監督代行)
3回戦に勝ち進んだ宮ノ陣フラワーズは、優勝候補の強豪・長曽根ストロングス(大阪)と対戦した。実は、僕はこの試合だけ見にいけなかったのだが、宮ノ陣は勝利したことをあとで知った。長曽根の仕掛ける走塁・バント・エンドランを悉く封じて、相手のあせりも誘ったようだ。
翌日の準々決勝、会場の神宮球場に取材に行った。この試合は、城南ファイヤーズ(群馬)に3点を先制されたが、徐々に追い上げて6回に逆転して勝った。試合後の取材でベンチを訪ねて驚いた。なんと、本山監督がいないのだ。急な仕事で福岡に帰ったのが長曽根戦の前日。つまり、2回戦で僕が取材した後のことだったのだ。代行を託された渡辺裕二コーチは「彼でないといけない仕事が入ったようです。本人が一番つらかったと思います。監督が言い残したことは、とにかくいつも通りに…。こっちに来てから、それしか言っていませんですし。大庭君は疲れもあったのでしょうね。先制はされましたが、私たちも選手を信じて落ち着いてやれたと思います」
準決勝は九州対決。五十市タイガース(宮崎)を制して、宮ノ陣はとうとう決勝に進出した。同日の決勝戦(この大会はダブル方式)は、大会最多出場の常磐軟式野球スポーツ少年団(福島)。長曽根に対して、東の横綱と言われるが、全日本学童では優勝経験がない。悲願達成のために、橋本幸三監督のもとバッティングを鍛えて臨んだ。全国に来てから打棒は鳴りを潜めていたが、徐々に覚醒して、しり上がりに調子を上げてきた。
試合は初回から常磐が先制。しかし、その裏にすぐ宮ノ陣も1点差に追い上げる。ここまでマウンドを守ってきた大庭は5回に連打を浴びて、「限界です」と自ら降板を申し出た。大庭にとって初めての体験で、普通の小学生に戻った瞬間だったのかもしれない。かくして、初めての全国で普段通りの野球を貫いてきた宮ノ陣の戦いは、あと一歩の準優勝で幕を閉じたのだが、それにしても立派な成果と言えるのではないか。表彰式の後も、僕は宮ノ陣ベンチ前に張りっぱなしだった。
宮ノ陣フラワーズ
絶対的エースも「限界です」と自ら降板した決勝戦
「宮ノ陣フラワーズは誰一人あきらめていなかった」と優勝した常磐の橋本主将もたたえていた
「少年野球のチームといえば、ファイターズとかジャイアンツ、タイガースと付けるチームが多いのに、なぜ“フラワーズ”なんですか?」。記者たちがチームのスタッフたちに質問を投げかける。「創部34年目ですが、当時のお母さん方が付けたと聞いています。それ以来変えることなく…」。僕は聞かれてもいないのに、こう答えた。「一人に一つずつの花、ってことじゃないですか!」。断わっておくが、僕はこの歌が好きなわけじゃない。直感的にそう思っただけだ。
急遽、帰郷した本山監督のあとを継いで、指揮を執った渡辺・原口両コーチも「本山監督の野球を信じてやってきたから、ここまでこれました。本山監督のおかげです」と繰り返してきた。聞けば本山監督は前夜も、決勝戦に臨む前にも電話してきて「気持ちで負けたら負けだぞ」とチームに力を送ってきたという。
一方、敗れて悔しいはずの選手たちは大泣きもせず、優勝旗を受ける勝者を毅然とたたえていた。表彰式もすべて終えて球場を後にしようというとき。準優勝の宮ノ陣はコーチ・スタッフ・選手たちが全員で、優勝の常磐選手たちを握手で送り出していた。
宮ノ陣フラワーズ
敗れても相手チームの健闘を祈るいさぎよさ
最後には、こんなシーンもあった。常磐のキャプテン・橋本蓮君が宮ノ陣の選手たちに囲まれた。「これ、日本一のキャプテンに!」と言って橋本君が手渡されたのは、一羽の折鶴。ここまで戦ってきた相手チームから受け継いできた千羽鶴の一羽なのだろう。「これ、お前たちがもらったもんだろう?」と一度は辞退した橋本君も最後は笑顔で受け取った。宮ノ陣の選手たちは「(優勝チームが参戦する)アジア大会、優勝しろよ!」と言い残して大田スタジアムを去った。橋本キャプテンは宮ノ陣について「あんなに点数が離れていたのに、最後まで誰一人あきらめていなかった。勝っても負けても僕らは、相手のいいところを学んで、次に生かせるよう徹底的にやっていきたいです」と語っていた。
宮ノ陣フラワーズ
野球の神様が与えてくれた試練。神宮での忘れ物を取りに行く
ベンチの右に陣取る人物が本山監督。全国での采配は、わずか2試合だった
大会は終わっても、僕の取材はまだ残っていた。今大会で8強に残ったチームに「学童野球・指導育成のコツ」を聞き出す取材だ。宮ノ陣フラワーズは本山監督が急遽、途中でチームを離れたが、あとを託されたコーチたちに聞いても、「本山監督の野球を信じてやってきたおかげ。そこに尽きます」とのこと。選手たちには、気を抜いたプレー、気の利かないプレーに対しては厳しく叱っていたという。「これじゃ将来、オマエはダメになるよ」と。社会に出て通用する野球人育成を目指していたという。こうなると、どうしても本山監督に話が聞きたい。だが、年が暮れようとしても、いっこうに連絡が取れない。
ようやく、本山監督から回答をもらったのが、2011年が明けた1月のこと。2通のファックスが届いた。そこに詰まっている言葉が、宮ノ陣野球のすべてだった。
最後に、その全文を紹介して、この稿を締めたいと思う。
*
●守備
永年、指導者として経験するにあたって、何が本人達が苦手なのか考えると、投手も含めピンチでの対応、その不安を取り除くため、普段の練習では特に時間を費やすのが、走者を置いて状況に応じての実戦的な守備練習に力を入れています。同時に走者にも高い意識を持つようにアドバイスしています。
守備=ディフェンスではなく、ピンチの場面でも攻める投球、または配球の考え方。私自身が小・中時に捕手ということもあり、外中心一辺倒のリードに頼らず、内角球の使い方等にも指示をします。
特にバントシフトの徹底、福岡県大会でもピンチの場面を攻める守備で乗り切りました。県代表とは思えないほど小柄な選手が多い中、どうやって全国で結果を残すことがテーマでした。小さくても体の使い方にムダがなければスローインが良くなる。特に内野守備においては、ノーバウンドスローインにこだわって練習しました。
●打撃
普段、公式戦前の練習では、真冬以外は朝7時より打撃練習を行います。今回、故障で主力の打者を欠く中、どう打線をつなぐかがポイント。試合を左右する大事な場面では、打順は関係なくバントの指示は当たり前。打者としておもいっきりフルスイングも単純でわかりやすいが、出塁するには、不利なカウントでも粘る対応力。状況によっては、四球で出塁=場合によっては安打以上の効果があると指導しています。
●走塁
どんな好投手でも、走者を背負ってのセットポジションにスキが出る、リズムが変わる。リードを大きく取り、盗塁はもちろんだが、走者が投手を引きつける。走者+打者で好投手を切り崩す意識の徹底。どんな場面であろうと、先の塁を取る意識。それらをおこたれば、主力であっても出場は出来ない。控え選手にも刺激になる。
チームの野球として浸透させているのは、特に守備時、相手打者のスイングを見てポジショニングを子供たちなりに考えさせる。
答えばかり与えても、本人たちの野球は伸びない。
感じろ、考えろが口グセです。
●指導方針
常に「人対人」。逃げていては何も得るものはない。練習で気を抜けば試合で必ず出る。うまくなりたい気持ちがあるなら、他人が受けているアドバイスも聞く。上達が早い子は必ず聞き耳を立て注目している。プレーに置き換えると、カバーリング、声の連携をおこたった時などの怠慢プレーに対しては、上手下手以前の問題と、厳しく指導します。
グランドでプレーする以上は、子供として扱わない。人として子供たちに甘さが出ないようにして、本気で接するように心掛けています。どんな試合でも相手チームがあって成り立つことであり、相手を敬う精神を持ち、謙虚さを忘れずに、がモットーです。
●全国大会を振り返って
私が途中帰郷してからも、渡辺監督代行を中心に、全員野球で勝ち進み、ヨソ行きの野球ではなく、普段通りの1点を取りに行く野球を貫き、欲を出さずに出来ました。これも選手全員がやり切った結果だと思います。
主力選手はもちろんですが、今大会は脇役とされている選手たちの活躍が目立ちました。
今回初出場で頂点は取れない、甘くないことが体感することが出来、野球の神様が与えてくれた試練と思い、二度目の全国出場を目指し、分厚いカベを乗り越え、またチームを鍛え直し、「神宮での忘れ物を取りに行く」がチーム全員の目標です。
【Vol.009】
中学野球指導者列伝(1) 梅原重喜先生
すべての選手・指導者が成長するために
新型コロナ感染拡大予防のための非常事態宣言により、学校生活や野球部の活動も依然として自粛を余儀なくされています。全国的な停滞ムードが重苦しく私たちの生活に覆いかぶさっています。『球童くん』の取材もとどこおっていますが、この機会に、自分の学童・中学野球取材履歴を振り返って、再開後の肥やしにしてみたいと思います。
*
僕が現在にいたるまで、中学野球の取材活動に魅せられ続けているのも、この人がいたからこそだ。
梅原重喜先生。初めてお会いしたのは今から14年前の2006年3月、江戸川河川敷で行われていた「下町杯」だった。雑誌の取材で中学生選手のピッチングフォーム、バッティングフォームを連続撮影させてもらう。その連続写真をプロ野球選手が見て解説・アドバイスするという企画のためだ。
その一人が、東村山第七中の大坪貴志君だった(写真=上)。本来は内野手だが、このとき行われていた試合に投手として先発していた。監督の梅原先生に、大坪選手についてコメントしてもらう。「野球をよく知っていて判断力が素晴らしい選手。お調子者ですが、おとなしいキャプテンをフォローしてチームを盛り上げてくれます」
その取材の帰り道の電車で、その大坪君と偶然同乗したので、梅原先生について、いろいろ聞くことができた。梅原先生はかつて、三鷹第一中を率いて、東京都優勝や関東大会出場など華々しい実績を残し、教え子の選手は社会人野球でも活躍しているという。正直、僕は知らなかった。中学野球の監督と話したのも、中学生の選手と話をしたのも、これが初めての経験だった。
それから月日は半年近く流れて、僕は埼玉・所沢市で開かれていた「ファミリアカップ」を訪ねて、安松中グラウンドで梅原先生と再会した。この間、実は大坪君の記事掲載までに時間がかかってしまい、何とか編集部に掲載してくれるよう頼んでいたという経緯もあった。
梅原監督(左の人物)が率いた東村山七中・最強世代といえるのが06~07年のチーム。秋・春・夏と3季連続で都大会に進出した
その七中でエースとして引っ張った圷(あくつ)選手は3年生になって、春のブロック・都大会・夏のブロックを通じて、わずか1失点という安定振りだった
東村山七中は大坪君たち3年生が引退して(雑誌掲載は引退後の9月になってしまった)、新チームは夏休みの練習試合に臨んでいた。梅原先生がベンチで選手たちを叱咤する声が響いてくる。チームはお盆休み明けで、ミスを連発するなど集中力に欠けていた。「やめろ、やめろ。そんなプレイしかできないのなら負けちまえ!」。中学生は今日素晴らしいプレイをしたと思ったら、次の日はまた別人のような凡プレイをしてしまう。褒められて、怒られて、毎日毎日成長していく。指導者も厳しくならざるを得ない。「私は、ついガミガミ言ってしまうんです。家庭で言えば父親のようなもの。時にはかばってあげる母親役も必要だと思います」。かたわらでは、前顧問・田川慎郎先生というベテランの教師が選手へアドバイスを送っていた。「いいかい、勝負強いバッティングだよ」と穏やかな口調で。中学生は大人への入り口に立っている。選手個々の性格に応じた指導ができるのも、日常の学校生活から一貫して見られる学校教員ならではなのだと、そのとき感じたものだった。
その年の秋以降、東村山七中(以下、七中という)の試合も見たくて、ブロック大会の会場でもある七中グラウンドに足繁く通うことになった。当時の七中は秋・春・夏と3季連続でブロック優勝、都大会出場という一つの黄金時代だった。選手たちの保護者たちとも話す機会も増えた。高校生以上になれば、子は親から徐々に距離を置いていく。親子で楽しめる時期は、この中学生時代までなのかもしれない。
前顧問の田川先生とも知り合いになれた。実は、七中は数年前まで“荒れて”いた。田川先生が赴任してきて、野球部を担当することになってから、徐々に学校は落ち着いてきて生徒たちも野球に真剣に取り組むようになったという。大坪君の兄である大坪健太君は、このときの野球部員で田川先生の教え子。大学を卒業して、教員試験を受けたという大坪健太君とも田川先生を交えて話を聞いたこともあり、中学野球で育てられた選手が長じて、指導者を目指すという道もいいのだなと感じた。
こうして、梅原先生を中心にいろいろな人とのつながり・貴重なご縁をいただいた。ここまで読んで、肝心の梅原先生に関する話が少ないじゃないか? と感じた人もいるのではないだろうか。
実際、その後数年にもわたって、いろいろな中学・指導者を紹介してもらった。そのご恩もありがたいが、僕にとっては東村山七中=梅原重喜先生で、マイ・フェイバリット・チームの一つであることはずっと変わらなかったのだ。
梅原先生の魅力を一言で語ることなどできない。野球への情熱はもちろん、子どもたちへの愛情(時に厳しさも)が指導のベースにある。梅原先生にとっては、どの教え子も皆かわいい子どもたちなのだ。教え子たちはよく梅原先生宅に招かれて、大好きな酒を酌み交わしながら野球談義に花を咲かせている。また、若い指導者の成長を手助けするためにも、胸襟を広げ惜しみない愛情を注いでいる。
梅原先生の人間味あふれるエピソードが、いくつかある。ほんの少しだが、紹介しよう。
中学生が審判を務めた試合のこと。その生徒は一塁塁審で、彼のジャッジが微妙だった。そのとき、他の審判団(教員たち)はその生徒を抜きにして協議をしてしまい、結局生徒のジャッジをくつがえしたのだ。梅原先生は「子どもの気持ちを考えろ!」と激怒した。
また、ある年の夏の都大会。夏に限っては伊豆の離島からも参加できるのだが、その代表校が七中と七中のグラウンドで対戦した。前夜の大雨でグラウンドは泥濘。早朝から部員総出で整備した。1試合分のエネルギーを注ぎ込んで--。「大島一中には気持ちよくやってもらおう。でも、やられたんじゃつまんねぇから勝とうぜ!」。梅原先生の男意気に両チームの選手たちが感じないわけはない。
梅原先生は2010年3月に定年となり、その後は2年間再任用というかたちで七中に残ったが、いまは完全に引退して、ライフワークでもある能狂言面・創作面の制作(担当教科は美術科)に取り組んでいる毎日だ。
それでも僕は、梅原先生の三鷹一中時代を知らない。いつか、梅原先生の「中学野球バカ一代記」を一冊にまとめたいという夢は捨てていない。おそらく、何日話しても尽きないほどの膨大な話を聞かされることだろう。しかし、いまは、まだまだ自粛しなければいけない時期。その日が絶対にやってくることを信じて、梅原先生への取材準備を整えたいと思っている。この話の続きは、それまで待っていただきたいと思います。
【Vol.008】
板橋区立上板橋第一中学校・一ノ瀬純先生
中学生の野球選手にも「人間力」を
地域の学童野球との架け橋になるべく、昨年7月には常盤台一丁目ジャガーズ、常盤台レンジャーズを中学校のグラウンドに招いて合同練習会を開催した(中央が一ノ瀬純先生)
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中学校で野球をやりたい小学生とその親にとって、理想の環境とはなんだろうか? 中学野球の選択肢には、大きく分けて3つの道がある。硬式野球のクラブ、軟式野球のクラブ、そして大多数を占めるのが、中学で野球部に入ることだ(そこでは、さらに私立の中高一貫校を選ぶか、地元の公立中学校を選ぶかで2つに分かれる)。
やはり、多くの親たちにとって最も楽で安心できる選択肢は、地元の公立中学の野球部に入ることだろう。文部科学省や学校の方針として部活動時間の制限も大きな問題だが、もっと大きいのが指導者の資質であることは間違いないと思う。
この1月、学童野球・中学野球の2人の指導者が、実に6年ぶりとなる感激の再会を果たした。一人は、このコラムでも取り上げた「北原少年野球クラブ」の立石篤申監督。そして、もう一人が練馬区立八坂中学校時代に、強いチームを育てた一ノ瀬純先生(現在は板橋区立上板橋第一中学校)である(この二人の対談は、後日「特集」として野球新聞『球童くん』に取り上げる予定です)。
実は、僕がこのお二人に初めてお会いした時期(3年前)が近かったという奇妙な縁から、今回の再会にこぎつけたという経緯がある。最初に会ったのが立石さん。当時、高学年チームの監督として、あの不動パイレーツを決勝で破って東京都新人大会を制した後のことだった。その1週間後に出会ったのが、当時は町田南中に勤務していた一ノ瀬先生。この時点では、二人の間に深いエピソードがあったとは知らなかった。約9カ月を経て立石さんと2度目に会ったとき、聞いたのだ。「近藤さん、一ノ瀬先生ともお知り合いだったんですね~。いやー、あの方は素晴らしい人です。何せ、ウチの子たちが八坂中には行かないことを知っていて、快く体験会を引き受けてくれたんですから」。
上板橋第一中学校・一ノ瀬純先生
中学の3年間で魅力的な人間になれる場が部活動
話は6年前にさかのぼる。北原少年野球クラブの卒業生が学区を超えて(基本的には練馬区内は自由なのだが)八坂中に入学して、一ノ瀬先生の野球部にお世話になっていた時代のこと。立石さんが卒団生のための体験会をお願いしたのは年も明けた2月で、このときすでに新入学生の枠が締め切られていたことを立石さんは知らずにいたのだが、電話でお願いされた一ノ瀬先生は明るい声で「いいですよー!」と快諾したのだ。
立石さんいわく「体験会に行ってみて驚いたのは、他のチームは来ていなくてウチだけだったんです。あとで聞いたら、もう締め切っていたのだと」。体験会に来た子たちが八坂中には入れないとわかっていながら、八坂中の野球部は熱心に北原の小学生を指導してくれたのだ。
このとき、一ノ瀬先生も指導はするのだが、直接小学生の面倒を見たのは中学生の野球部員たちだった。初めて中学の選手たちに教えてもらって、北原の子らは少し緊張していたようだ。そこで立石さんが感動したという光景は「ウチの子たちを教える中学生に向かって、一ノ瀬先生は『お前、人間力まだまだだなぁ~』と言ったんです。すごいなぁって思いましたね」。
一ノ瀬先生いわく「当時の八坂中野球部がいい循環で選手たちに恵まれていたのは、そこにいる中学生の選手に人間的な魅力があったからなんです。小学生の子たちに八坂中野球部で野球をやりたいなと思ってもらえるには、体験会で優しく教えられるかどうか。このお兄ちゃんと野球やりたいな、と子どもたちに思われるような振る舞いがお前たちにできているのか? という意味で人間力という言葉を使ったんですね」。
立石さんが一ノ瀬先生に感動したという話は、朝まで話しても止まらないほどの勢いだった。「小学生のときに、あまり伸びなかったウチの選手が、八坂中3年のときに強豪の私立高校が見に来るくらいの選手に成長したと聞いて、ビックリしましたよ!」。
一ノ瀬先生は言う。「小学校で問題児といわれるような子も、中学の3年間をへて後輩たちにも慕われる、いいお兄ちゃんになっていける、そういう場が部活動だと思います」
上板橋第一中学校・一ノ瀬純先生
成長スピードは個々で異なる。待つことも指導のうち
いまは「教員の働き方改革」だからなのか、中学・高校の部活動が大きな制限を受けている。だが、とりわけ多感な時期の中学生にとって、カリキュラム通りの授業を受けて、当たり前の学校生活を送るだけで、それこそ“人間力”が身につくものだろうか。
一ノ瀬先生は一度民間の企業に就職したが、一念発起して大学の通信教育で教員免許をとり、27歳にして教壇に立つことのできた苦労人だ。初任の八坂中では選手にも恵まれた(信濃グランセローズの佐渡俊太投手もその一人)が、中学生を一人の人間として成長させる指導力があったからだったと思う。その後、町田南中に赴任した3年間では、闘病中の父親の面倒を見ながら、家庭のこともおろそかにはしなかった。一人の教員である前に、一人の社会人、一人の夫、一人の父親、一人の息子として、当たり前のことを精一杯やってきたからこそ身についた人間力ではないだろうか。
現在は上板橋一中で部員数が極端に少ないながらも、生徒の自主性が育つまで粘り強く待つ指導を続けている。その結果、長期間にわたり部活動に出てこなかった2人の部員が、年が明けて「もう一度野球をやらせてください」と自分から頼み込んできた。一ノ瀬先生は「小さいけれど、それもひとつの成長」だと、生徒の成長を我が事のように喜んでいた。若かった八坂中時代は勝ちへのこだわりが強かったが、今は生徒一人ひとりの小さな歩みを尊重しつつ、個人の成長のために教えているのだろう。
「どんなにムダと思えるようなことも一生懸命やりなさい」「上級生が率先して野球部の雑用もやりなさい」。そう部員たちに言い続けていることが上っ面ではないことは、彼の生き方を見ても十分に納得できることだと思う。野球の指導力もさることながら、その内面にひそむ人としての魅力を見極めることが、信頼できる指導者を選ぶ決め手のひとつになるのではないだろうか。
【Vol.007】
豊島区・駒込ベアーズ・田中監督
心優しき駒込の“熊さん”
鬼の目に涙の“断髪式”
「キミたちの監督やるの、今日が最後だからね。だから、この30番はキミたちの手で外してください」
小学4年生以下の東京都チャンピオンを競う「第2回東京都軟式野球マクドナルド・ジュニアチャンピオンシップ」で大会3位に輝いた、駒込ベアーズ(豊島区)の田中貴司監督は、そう言って自身のユニフォームを子どもたちの手に託した。まるで“断髪式”のようだ。
豊島区・駒込ベアーズ・田中監督
つらい思いをして勝つからこそ野球はもっと楽しい
「意外と楽しい!」「手術(みたい)デス」ハサミを手にする子どもたちの目が輝いている。やがて高学年になると、家庭科の授業で裁縫も習うだろう。選手たちにはいい経験。なにより、強くなりたい一心で厳しい指導にもついてきた監督との別れ(チームには引き続きかかわっていく)を惜しんで、感謝の気持ちを伝える光景は見る者の涙腺も熱くさせるのだった。
「ベアーズは親御さんがみんなで協力してくれることが一番。僕は少々口が悪いんですけど、いいよいいよと言ってくれますから。準決勝は大差で負けたけど、ゲームセットまでは泣くのやめよう、と。それにここまで(都3位)きたんだから、スッキリしようよ! 泣かないで笑って帰ろうと言いました」
田中監督はずっと3・4年生の育成を手がけてきた。最初は野球の楽しさから教えて、子どもたちが「勝ちたい」と言ってきたときに初めて、厳しさを教えるようにしてきたのだ。
「最近の子どもって、ゲーム感覚なのか、やってダメならリセットすればいいとなっちゃうんですね。でもね、つらい思いをして勝つからこそ、野球って楽しいんだと伝えたかった。よく、ここまでついてきてくれました!」
豊島区・駒込ベアーズ・田中監督
鬼監督といわれても、すべては子どものために
田中監督は、今度二十歳になる娘さんが小学6年生の1年間だけ、保護者としてチームにかかわって以来、ベアーズ一筋に指導してきた。その娘さんは小学生のころ、健康改善のために親元を離れて寮生活を経験したという。そして帰ってくると、野球がやりたいと言ってベアーズに入れてもらった。中学生以上で野球をやることはなかったが、ベアーズ時代のグラブは今でも大事にしている。今は柔道整復師の資格をとって、スポーツ選手のために働きたいと頑張っているそうだ。
田中監督の帽子の裏には、『鬼』の一字が刺繍されている。30番を外したその背中を子どもたちが“攻撃”してきた。「やめて! いま負けたばかりで弱っているんだから」。グラウンドを離れれば、鬼監督ではない。子どもたちに慕われ、愛されている姿が、優しいクマさんの姿に見えて微笑ましかった。
今後は低学年、高学年を問わずチームを縁の下から支えていく田中監督、いや田中コーチ。大変だけど誰にもできる仕事ではない。「疲れるんですよ、疲れるんですよ!」と言いながらも、その目は嬉しそうだった。お別れの儀式を終えた後は、鬼の目にも涙…。
「ありがとう。でも、ごめん…、勝たせてあげられなかった」
(追伸:その後、キャプテンから温かいお礼の手紙をもらうと、また涙があふれたという)
【Vol.006】
佐賀・三根ボーイズと永田監督(後編)
親以外の大人に怒ってもらえるなんて幸せだぞ
10年前の2009年、佐賀県みやき町の「三根西少年野球」(現・三根ボーイズ)を現地にたずねて、永田監督たちとの楽しい交流を終えて帰京した僕は、すぐに永田監督から電話をもらった。「近藤さんのお年を知らずに(若造に見られた?)保護者が失礼な対応をしてしまったかも、と監督から謝ってくれと言われましたバッテン。みんな、近藤さんにまた会いたかとです!」(今回は「後編」です!)
前編(↓)では、永田監督との出会いから、永田監督の学童野球指導者のルーツとなった話をお伝えしてきた。今回は、選手と保護者、その間を取り持つ監督の姿をお伝えしたいと思う。
*
「この仕事をやってて残念なことは、教え子の試合を観に行けんことです」
永田文隆監督の仕事とは、もちろん三根ボーイズの監督。チームが活動している土日は、同時に教え子の野球部の活動日でもあるのだ。
2013年5月、僕が鳥栖を仕事で訪れた翌日、三根ボーイズのチームレポートを書くための一日密着取材をお願いした。しかし、永田監督は不在。次男の高校野球遠征に同行するためだった。それでも、初めて訪ねた2009年同様、監督不在を感じさせないほどの気持ちよい対応を受けることができた。ひとえに保護者たちの強力な協力体制のたまものである。
佐賀・三根ボーイズと永田監督
親が一生懸命やと子どもにも伝わるけん
このときの保護者会会長は、古賀裕将(ひろまさ)・絵利加(えりか)夫妻だった。三根ボーイズの保護者会会長は夫婦で協力しながらたずさわるのが特徴だ。もう一つの特徴が、学年によるカベをつくらないこと。
「野球はチームプレーが必要なスポーツじゃないですか。学年のカベをつくらず、保護者たちも一丸となってやりましょうと心掛けています」。裕将さんには野球の経験がない。だから、その分一生懸命勉強した。
妻の絵利加さんは、母親業は当然のこと、パートで働きながら看護師になるための勉強もしていた。おまけに、保護者会の会長を引き受けたものだから、さあ大変!
「子どもにはメッチャ当たられました。最初はキツかったです。でもここで勉強をあきらめたらダメ。親が一生懸命やってると子どもにも伝わるでしょうし。失敗ばっかりしてきたけん、それだけは教える自信あります、アッハッハ(笑)」。絵利加さんはバレーボールの選手だった。親が応援にきてくれたことがすごく心強かったという。夢をあきらめず、見事に看護師の資格を取得し、いまでは医療機器メーカーでも頑張っているという。
佐賀・三根ボーイズと永田監督
野球の楽しさだけでなく、勝つ楽しさも教える
この2013年を除けば、現在にいたるまで、鳥栖に行くたびに永田監督の熱い、あたたかい対応を受けてきた。時には、熱心な親たちも連れてきてくれる。
2度目の全国出場まであと一歩と迫ったチームのエース、木村竜人君の母親も、そのひとりだ。母・清美さんは長男が三根東少年野球の選手だったが、6年の冬に三根西との合併が決まる。長男は卒業直前だったが、1月からの3カ月、三根西と一緒に活動することで「勝つ楽しさ」を経験。その自信を胸に、その後の中学野球や高校野球の糧となったという。
「最初は、永田監督ってなんてコワイ人なんだろう、と思いましたよ」。今ではすっかり永田監督を信頼している。現在は次女の芹花(せりか)ちゃんがチームの主力で活躍。女子ながら体が大きく、かつ身のこなしがうまい一塁手だ。
「デカイでしょう? セリオです!(ショートカットだし)男の子にしたほうが良かったかなと思うくらいの“男前”です(笑)。でもお菓子つくったりして、意外と女子力高いんですよ、母親と違って」。なんもなんも(いえいえ)、お母さんも立派に女子力の高い、オトコマエですから!
佐賀・三根ボーイズと永田監督
子どもを育てていきたい気持ちは、まだまだありますよって
昨年などは、保護者会会長のお宅のホームパーティーにも招いていただいた。親御さんたちともいろいろとお話ししたが、誰に聞いても返ってくる気持ちは「親以外の大人に怒ってもらえる、それが子どもたちにとって何とありがたいことか」ということだった。
永田監督にも、二人の息子と一人の娘がいる。娘のリコちゃんは今年、学校を卒業して保育士になった。次男は父親と同じ消防士に就いた。そして、長男には男の子が生まれ、永田監督は晴れておじいちゃんとなった。「まだまだ子どもを育てていきたい、と思うちょります」
現在は教育委員会に出向中。永田監督は、そこで小・中学生の選手を一貫指導できるように、教育の体制を変えていきたいとも考えていた。古い体質・現状を変えるのは難しいと思うが、少しずつ風を起こしてもらえればと願う。すべては、子どもたちのために--。
*
去年のことだ。「サガン鳥栖がJ2(2部リーグ)に落ちろ~と思うちょりましたバッテン、そうしたら近藤さんに会えなくなるので、つらかです」(僕が長年かかわっている横浜F・マリノスは今年ついに悲願の優勝を果たしました!)。
そして、サガン鳥栖もギリギリのJ1残留となった。サッカーの人気が落ちれば、野球人気が復活するという単純なものではないだろう。そう、今こそ野球界も少しずつ変わっていかなければいけないのではないか。
そのさわやかな風を、佐賀の地から吹かせてくれることを、ずっとずっと祈っていますけんね~。(了)
【Vol.005】
佐賀・三根ボーイズと永田監督(前編)
野球を好きなんは大人やない、子どもやけん
どの町にも「野球がある」、そしてサッカーもある--。
佐賀県三養基郡みやき町。隣の鳥栖市にはプロサッカー(Jリーグ)のサガン鳥栖がある。そのサガン鳥栖がJ1(1部リーグ)に昇格して以来、毎年僕はこの地を訪れては、一人の学童野球監督に会っている。みやき町(旧・三根町)の「三根ボーイズ野球クラブ」の永田文隆さんだ。
きっかけは2009年の8月、もう10年も前のこと。その年から東京開催となった全日本学童軟式野球大会に佐賀県代表として出場した。当時の名前は「三根西少年野球」。あの強豪・大阪の長曽根ストロングスを相手に、一歩も引かぬ戦いを見せて惜しくも緒戦で敗れる。そのとき、僕は永田監督に声をかけた。「子どもたちは悔しいでしょうが、私には悔いはありません」。真っ黒に日焼けした顔に真っ白な笑顔を見せた。その2ヵ月後、僕は仕事で九州を訪れることになっていた。
佐賀・三根ボーイズと永田監督
監督がいなくてもチームは常に前へ進んでいく
2009年10月。古代遺跡で有名な吉野ヶ里公園駅に降り立つと、迎えに来てくれたのは選手の母親の永田さん。永田監督の奥様でもなければ血縁でもない。永田監督は前日から泊まりの夜勤でグラウンドには不在だった(職業は消防士)。それでも僕はカメラを持って、選手たちのプレーに釘付けになる。忘れられないシーンがある。傍らで見守るお母さん方に声をかけた。「あのー、写真撮ってもいいですか?」。すると一人の母親が顔を赤める。「まあ、どうしましょう」「いえ、子どもたちの…」「あら、やだ(笑)」。今も忘れていません(ジュンコさん、また会いたかです!)。
練習は監督不在で進んでいたが、グラウンドには当時65歳の大川義弘コーチが目を行き届かせていた。若い頃に西鉄ライオンズの入団テストも受けたことのある大ベテランは、チームに不可欠、唯一無二の特別コーチだった。
そして、夕方になって永田監督が職場から直行し、グラウンドに現れた。選手たちの表情もいっそう引き締まっていた。
僕はその後、永田監督の自宅に連れて行かれた。夜勤明けの監督はシャワーを浴びたい。「近藤さん、お客さん扱いせんですけど、よかですか?」。その一言がうれしかった。もちろん、いいですよ。お構いなく。その間、監督の娘・リコちゃん(当時小5、もちろん選手)とグラウンドで撮った写真を見ながら遊んでいた。夜は地元の居酒屋で保護者たちも交えて、楽しく会食。野球の話ももちろんだが、歳も近い大人同士でほがらかに盛り上がった。野球熱の高い三根だが、なかにはサッカーをやる子どもも増えている。ある父親によれば二男は野球をやっているが、長男はサッカー。またある人の息子は高校野球、でも娘は高校で女子サッカー。実は僕はそのサッカーの取材でこの地を訪れたのだ。
佐賀・三根ボーイズと永田監督
怖い監督も、好きな監督も「永田監督です!」
2度目に永田監督に会ったのは、2012年3月。この年からサガン鳥栖がJ1に昇格したのだ。同じ年、三根西少年野球にも変化が訪れた。隣の三根東小と合併し、新たに「三根ボーイズ野球クラブ」としてスタートを切ったのだ。「ミネニシの名前も残したかったバッテン、新しい歴史バ作ろうと」。永田監督は教え子でもある山内コーチを連れてきた。「世の中に出れば理不尽なことはいっぱいある。監督は少年野球でそういうことまで教えているんです」。学童の時代に出会った指導者は、その後の人生に大きく影響を及ぼしていく。
「ある兄弟がおりまして、弟のほうを怒ったところ、お兄ちゃんが弟に“オレは5年で初めて怒られたのに、お前はまだ4年なのに怒られた。幸せなことだぞ”と」。もう一つ、耳に残っているエピソード。「ある子などは、一番怖い監督は誰か? と聞けば“永田監督です”。一番好きな監督は? と聞けば“永田監督です”と言いよります」。そんな永田監督のルーツは、やはり少年時代にあって、「中学野球部の先生は野球の経験がなかったんですが、1ヶ月間練習してノックができるようになりました。そのとき、私に“お前が一番野球が好きなんだ”と言ってくれて、その言葉を胸に高校まで頑張りました」。
その年から、ほぼ毎年のように鳥栖を訪れては、三根ボーイズ、永田監督のもとを訪れている。翌2013年はチームとして取材をお願いした。しかし、このときは永田監督は不在だった。(↑ 後編につづく)
【Vol.004】
芝浦工業大学柏中学校・白坂 琢監督
常にプレーヤーズ・ファースト
指導現場でも家庭でも夢の野球伝道師
「野球人口が減っている」--どこへ行っても聞かれる全国区の悩みだろう。しかし、先日訪れた千葉県柏市の中学一年生大会では、合同チームも珍しくないご時勢に他校がうらやむ部員数をかかえるチームがあった。
芝浦工業大学柏中学校野球部。私立の中・高一貫校だからといって、いい選手が多く集まってくるわけでも、恵まれた練習環境で思う存分に練習ができるわけでもない。「勉強・家庭生活も大事だから」という学校方針のもと、部活動にかける時間は一日1時間強(活動日は週3日)しか与えられない。少ない時間ながら効率的に、しかも楽しくやれているのだ。同中学のホームページには野球部の「活動理念」が掲載されている。その一つが、
1.Enjoy Baseball
・選手は、常に主体的であること。
・選手は、Baseballを多面的に追究する楽しさを知ること。
・選手は、高校野球や大学野球、その先のプレイに繋がる今を実感すること。
中学野球部を指導して16年という、監督の白坂琢(しらさか たく)先生は「初心者も多いんですが、部員は辞めません。一度も試合に出ない選手はつくりたくないんです。ゲームに出てこその楽しさは絶対にあると思いますから」と、以前の取材に対してこう説明してくれた。
芝浦工業大学柏中学校・白坂 琢監督
野球初心者にも個々が上達するための処方箋を
白坂先生は日本体育大学を経て、上越教育大学大学院でスポーツ力学を本格的に勉強してきた。その理論を中学生の指導にも活かしている。いわゆる理論派監督だが、理屈ばかりの頭でっかちではない。指導理念にあるのは、常にプレーヤーズ・ファースト。高校に行っても伸びるだけの基礎力はつけてあげるが、すべての野球部員が高校まで野球をやるとは限らない。だから、中学ではまず試合ができるだけの技術を身につけさせる。そして、野球の楽しさを存分に味わわせる(だから“Enjoy Baseball”)。
そんな白坂監督には、過去2回にわたって取材をお願いした。最初はバッティング、2度目はスローイング。
「打撃はセンスじゃなく、理屈がわかって正しいトレーニングをやれば、どんな選手にも伸びしろがある」
「投げる動作はいちばん身につきづらい」
だから、投げ方を身につけるには、幼児が成長するにしたがって、最初はヒジだけを使って投げる動作から、徐々に肩関節を使うことを覚え、さらに足を踏み出して投げる動作に変わっていく--という道筋を踏む必要性があるという。
ボールがきちんと投げられなければ、野球は成立しない。基礎技術の習得に適したゴールデンエイジのような考えは、サッカーだけでなく野球にも当てはまる。小学校から経験してきた選手にはかなわないが、初心者の中学生でも個々の適性に応じた指導を受ければ習得するのに遅いことはない。
「お医者さんのように、それぞれの症状に合わせた薬(課題克服法)を処方することはできます」と白坂先生は自らの役割を自認する。
そうした活動理念が知れ渡るにつれて、入部してくる生徒も増えてきたという。最初はストライクが入らなかった選手も、練習を重ねることによって、一年生大会では好投を見せてくれた。「うれしかったですね」と白坂先生は微笑む。
芝浦工業大学柏中学校・白坂 琢監督
子どもの気持ちを尊重し、野球の楽しさを伝えていく
さて、そんな白坂先生ではあるが、自身のルーツはどこにあるのだろうか。また、2児の父親としての素顔とは? 今回の柏訪問の取材目的は、実はそこにあったといってもいい。
Facebookでもたびたび公表しているが、白坂先生には、野球が大好きな二人の息子がいる。長男は中1、二男は小4でいずれもチームに入っている。父親としては野球をやってもらいたい気持ちを抑えつつ、最初から押し付けることはしなかった。体育教師らしく、いろんな動作を一緒に遊びながら身につけさせてきた。鉄棒、跳び箱、自転車をこぐ、走る、泳ぐ、跳ぶ……。
「家で遊ぶにしても、寝転がっては起き上がる、とかゲーム性をもたせながらやりましたね」
野球には、実に多くの動作が関係してくるから、こうした多くの動作を小さいうちから制限なく経験させることが、ゆくゆく役に立つことは明らか。そのうえで、「最終的にやりたい競技を選んでくれたらいいと思っていました」。長男は最初から野球をやりたがったが、二男は実はテニスがやりたかったという。しかし、最終的には二人とも同じチームに入って、野球に夢中になっていった。
「実は私の父もそういった考えだったんです。弟と僕の兄弟には水泳やサッカーなど、たくさんの運動をやらせてくれました。3歳から水泳をやって、小学生ではサッカーにも取り組みました。そのおかげで、運動能力が伸びたのはありがたかったですね」
そんな白坂先生にとって、少年時代の忘れられない思い出がふたつ。一つは、小2で地域の学童野球チームの入団テストを受けて合格したこと。
「忘れもしない10月26日のこと。自分では勝手に、その日は野球記念日にしています」
もう一つが小学生時代、父親と弟の3人でキャッチボールをしてから登校するのが日課だったこと。
「父も実は野球がやりたかったのに、諸事情からやれなかったと後から聞きました」
白坂家三代にわたる“野球遺伝子”は、今に立派に受け継がれているだろう。
祖父・父と同じ教育者の道を選んだのは、大学3年の秋だった。
「野球は、これまでの自分の人生を幸せにしてくれたスポーツ。自分もそれを伝えたいし、自分の教え子にも、その次の世代に伝えてくれればいいと思ったのです」
指導者から選手へ、そして父親から子どもたちへ。正しく、楽しく、受け継がれることで、野球の未来は間違いなく明るく開けるにちがいない。(了)
【Vol.003】
北原少年野球クラブ(練馬区学童野球連盟)
子どもを思えばこそ親は自然と力になれる!
敬老の日、秋分の日を利用した9月の3連休、雨にも見舞われましたが、暑さも峠を越した過ごしやすいこの時期、各地でいろいろな大会が行われたことでしょう。
夏を過ぎて迎える実りの秋、伸び盛りの学童球児たちが体も心も大きく育ってくる時期でもあります。そんな季節、訪れたひとつの注目チームを紹介しましょう。
東京・練馬区では「選手権大会」という大きな大会が行われています。主催するのは「練馬区学童野球連盟」。じつは広大な練馬区には、2つの野球連盟が存在しています。ひとつが学童連盟、もうひとつは「練馬区軟式少年野球連盟」。両連盟ともに30以上のチームをかかえ、全日本軟式野球連盟の東京都大会には、双方で予選を行って代表を決めているほどです。
さて、学童野球連盟所属の有力チームのひとつが「北原少年野球クラブ」です。この名前を聞いてピン! ときた方も多いでしょう。そう、3年前の新人戦、当時飛ぶ鳥を落とす勢いで秋2連覇を続けていた「不動パイレーツ」(目黒区)を決勝で破って、強豪の独走にストップをかけたチームです。当時の監督、立石篤申さんはバリバリの関西人。顔の広さ、度量の大きさ、ふところの深さで一目おかれる指導者です。
その立石さん、いまは4年生以下の低学年チームの指導にあたっています。かわって5・6年の高学年チームの監督をつとめる、細田健一さんに、選手権大会準々決勝が終わった直後にお話を聞いてきました。
北原少年野球クラブ
コーチングスタッフは各自責任をもって取り組んでいる
「いまのチームには、体の大きな子は一人もいないんですが、そこは個々の技術で補い合っています」
背番号1の福澤悠汰クン(6年)はぽっちゃり体形ながら、体をうまく使って腕をしなやかに振りぬいていた。投げた後の右手の甲が見事に内側を向いていて、つまり内旋している。力が適度に抜けて負担を軽くする。これはケガの防止にもつながる投げ方でもある。
--これは教えているんですか?
「はい。ウチは学年ごとにピッチングコーチを置いています。他にも担当をしっかり分けていて、意見を言い合いながらも、みんなが責任を感じながらやっているので、それは大きいと思いますね」
聞けば5・6年チームだけで関わるスタッフは11人もいるという。所属選手の親だけでなく、卒業してからも戻ってきてチームを助けてくれるのだ。細田監督もその一人で、長男は高2、二男は中2(新人戦東京都優勝メンバー)だが、チームに長くかかわっている。
この日の試合では、終盤に7・8・9番打者が活躍して打ち勝った。とくに9番の市原悠真クン(6年)は「春までは試合にからめなかったんですが、ここにきて成長しています」。彼の成長で外野がより強化されたということだ。
北原少年野球クラブ
アップ、ストレッチにかける時間はどこにも負けない
子どもはあるとき、急に伸びる時期がある。その時期は個々によって千差万別。遅咲きだって悪くない。北原少年野球クラブでは、選手が少しでも長く野球を続けられるよう、勝ち負けだけにこだわらないという強いポリシーがうかがえる。
「おそらく、ウチはアップとストレッチにかけては、いちばん長いチームだと思います。アップだけで1時間はかけますし、一日の最後はじっくり30分以上ストレッチをやってから解散しています。これを続けるようになってから、肩肘のケガ人は大きく減りました」
学校でも放課後の遊びでも常に遊んで、走り回っている子どもにアップは必要ない、また筋肉が固まらない時期なので、クールダウンもいらないという声を聞いたことがある。しかし、北原少年ではそれを徹底している。
「やり始めたのがちょうど、秋の東京都優勝、関東大会に出場した3年くらい前なんですが、必要だという声がある一方、やると限られた土日のなかで練習時間が削られるという悩みもありました」
子どものためを思えば、勝利を優先するより、体のケアをしっかりやったほうがいい。大人たちはほぼ賛同にかたむいて、それを最終的にまとめたのが当時の立石監督だったという。どんなに帰りが遅くなっても、しっかりていねいにストレッチを全員で終えてから解散という当たり前の習慣が定着したのだ。
北原少年野球クラブ
親の協力が強力であればチームも自ずと強くなっていく
子を思う心は父親だけではない。むしろ、母親の気持ちにまさるものはないだろう。この試合で象徴的なシーンは、急遽2番手でマウンドに登った選手を祈るように応援していた一人の母の姿だった。
「チームが勝てる力は選手や監督コーチらスタッフのおかげかというと、ちがうんですよね。やっぱり親がどれだけ応援してくれるか、どれだけお手伝いしてくれるか。親の協力体制が強い代はやっぱりチームも強いんです」
この保護者をまじえた強固なチーム体制ができたきっかけは、3年前の関東大会だった。茎崎ファイターズ(茨城県、この夏の全日本で全国準優勝)をはじめとした強豪チームの動向に感化されたのだという。
たとえば、この日は昨晩からの雨でグラウンドはぐちゃぐちゃだった。すると、父親たちは朝早くからスポンジの水抜きなどグラウンド整備に熱心に励んだ。強風にも飛ばされないよう、バックネットのロープ張り、試合に訪れる人のために駐車場案内。こうした会場設営のおかげで試合は無事に行われ、そして勝った。それをそばで目にしていた子どもたちが感じないわけはないだろう。
「いまは子どもの数も少ないんですが、これが今後増えてきても、いまやっていることが当たり前になってくると、本当に強くなってくるでしょうね。次に立石が高学年の監督になるまで、そこで一巡しますから」
北原少年野球クラブ
そして「また試合がやりたいね」と言われるチームに!
取材をしていて、いつも思うのは、ベンチやベンチの裏で応援する保護者たちの姿を見て、「知らなかったけど、このチームいいな、応援したいな」というチームに巡り会えたとき、最高にいい気持ちにさせてくれる。北原少年もそのひとつであることは間違いないのだが、細田監督もそれは目指すところであった。
「勝ち負けは結果に過ぎないけれど、どことやっても北原とまたやりたい、と思ってもらえるチームにしたい。たとえウチが0対30で負けるような試合でも、北原には学ぶことがあるよねといわれるように、まだまだ頑張らないといけません」(了)
【Vol.001】
キミそスターだ! 大物だ!
ジュニア世代の甲子園、「全日本学童軟式野球 マクドナルド・トーナメント」。東京都開催になってから10年、長い歴史を振り返っても、地元・東京勢の全国優勝は、まだありません。
そのなかで、今年の東京都優勝「不動パイレーツ」は、史上最高成績の3位に輝きました。
3年前の初出場(ベスト16)のときのエース・富塚隼介クンは、先日のジャイアンツカップで優勝した「世田谷西シニア」の主砲として、ホームランも放ったと聞いています。そのほか、不動をはじめ、目黒区出身の野球少年が中学では日本一になっているのですから、学童世代も負けていられないでしょうね。
さて、その不動が君臨する目黒区学童軟式野球連盟には、東山エイターズ、中目黒イーグルス、東が丘ボーイズなど、好チームがひっきりなし。16チームしかない目黒区で、上部大会に進めるのは優勝のただ1チーム。
そうです、ここ数年は不動パイレーツの独壇場なのです。他の地区にいけば、東京都で上位を争えるチームが多いのになあ、とつくづく残念で仕方がありません。昨日は目黒区砧グラウンドで、新人戦の準々決勝がおこなわれていました。
注目したのは、「中根メッツ」。監督の森大輔さんは、日体荏原高校、日本体育大学出身。長男をエースに、長女も下位打線ながら名を連ねています。
と、森監督との談笑中に会話に割って入ってきたのが、ディレクターズ・チェアに踏ん反り返っている少年、まだ3年生ながら礼儀正しく、それでいて自己アピール旺盛です。
名前は? 「村中ヒカル」。
「ヒカルは“光”じゃなくて、“白の右に告げる、あ、右から読んだら“告白”(笑)」
ユーモア精神も満載です。さらに、このヒカル君、頼みもしないのに、後ろにまわると、肩もみまでしてくれた。うーん、サービス精神も満点だね。目つきもいいし、きっと野球がうまくなるよ!(了)