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特別応援企画

「がんばれ佐渡俊太」

信濃グランセローズ(BCリーグの独立プロ)の主力投手である、佐渡俊太選手。東京練馬の八坂中野球部出身で、日大三高、明星大学を経て入団。今シーズン3年目を迎えて、現在月間MVPを2度受賞するなど好調を維持してきました。佐渡選手が目指すのは、もちろんプロ野球(NPB)入り。この企画は、佐渡選手の特別応援企画として、佐渡選手の歩みを恩師の一ノ瀬純先生(現・開進二中)の話で振り返ります。
10月11日のプロ野球ドラフト会議が迫ってきました。最後のアピールを続ける佐渡選手を「球童くん」は応援し続けます。

(写真提供:長野県民球団&一ノ瀬純先生)

 

[出会い~中学校時代] 

 

 佐渡を初めて見たのは、八坂中学校に赴任した1年目。休日に部活動をした後、学校に残って仕事をしていた時、中学校のグランドで少年野球が練習をしていました。ふと見ると左打ちの選手がセンスの良いフォームでバッティングをしていました。それが小学校5年生の佐渡でした。 

 

 6年生になり、冬から八坂4.1クラブの部員が八坂中学校への入学を控えて体験に来る日が多くなってきましたが、佐渡はシニアの体験に行く日もあり、参加の回数は少なかったです。良い選手であることはわかっていましたが、新規採用2年目で、まだ全く実績のない顧問と野球部では、なかなか魅力的には思われていないと思っていました。しかし、入学すると野球部に入るとのこと。佐渡のお父さんと話をすると、同級生や1つ上の仲がよかった八坂4.1クラブの先輩と野球をしたいとのことでした。 

 

 中学校に入り、佐渡と私でキャッチボールをしたのですが、その時から投げ方のきれいさ、力感なく投げても伸びてくるボールに、これまで見たことのない選手だと感じました。中学校では1年の夏、2年生のエースピッチャーだった野中という選手がいましたが、調子を崩しており、思い切ってわずかな登板回数でしたが、練習試合で1番結果を残していた佐渡を先発で起用しました。佐渡は性格的におとなしく、前にぐいぐいくるようなタイプではないので、3年生最後の大会に自分が投げる、ということには遠慮があったと思います。しかし、堂々としたピッチングで、初戦で敗退したのですが、都大会にいった相手にほとんど打たれることなく1試合を投げ抜きました。 

 

 新チームは佐渡の1つ上の代に力のある選手がそろっていたこともあり、八坂中学校野球部として大きく飛躍するチャンスだと思っていました。佐渡がエースになるだろうとは思っていましたが、キャプテンにも選ばれた前述の野中もおり、練習試合を通して競争をさせて、チームの信頼を得た方をエースにしようと考えていました。佐渡は秋の大会、チームの信頼を得てエースの座を勝ち取りました。そして秋の練馬区大会で準優勝し、ブロック大会にも勝ったことで、初めての都大会出場が実現しました。ブロック大会の球審をしてくださった佼成学園中学校の先生から、佐渡のコントロールが抜群で感動した、そして1年生であることにもびっくりしたとお話していただき、私自身も佐渡の力に自信をもっていきました。 

 都大会の初戦は七生中学校に2-0の完封勝ち。都大会レベルでも力が通用することを確信しました。2回戦は当時の中学校野球界で最も実績を挙げていた赤羽岩淵中学校。ここでも2-2の同点で7回を終え、延長9回までお互い譲らず、特別延長戦で敗れました。その後赤羽岩淵はベスト4まで勝ち進み、八坂中学校と佐渡の実力にさらに自信を深め、より高いレベルを目指したいと思うようになりました。 

 

 このように、少しずつ練馬区以外の学校とも対戦する機会が多くなり、多くの実力ある学校の指導者から、「あの左ピッチャーいいね」「今大会で1番いい左ピッチャーじゃないかな」といった言葉をいただくようになりました。また、佐渡と対戦したいと、練習試合の連絡も多くいただくようになっていきました。 

 

 ひと冬を越え、計画的にトレーニングも積み、食事への意識も保護者の意識が非常に高く、弁当の大きさもそれを表していました。タンパク質をしっかりとれるように、乳製品を積極的に摂るなど本人の意識もしっかりしていました。2年生に上がるころには身体が一回り大きくなり、その成果がバッティングにも表れるようになりました。それまでは2番バッターで、バントが上手な選手という感じだったのが、ヒット、そして長打を量産できるようになっていました。 

 

 そして佐渡が2年生の夏の大会。練馬区で初めて優勝し、都大会へ。初戦は八丈中学校でした。前日、非常に暑い日だったのですが、練習の序盤、トスバッティングをしていると、翌日が待ちに待った都大会にもかかわらず、覇気がなく映る選手が数名いました。その一人が佐渡でした。私は佐渡に対して、個人のことで叱ることはほとんどなかったので、3年間で1番叱ったのがこの時だったように記憶しています。練習から外され、ひきつった顔をしていました。しかし、翌日の試合、先発したものの本調子ではなく、その後、前日から熱中症気味だったとのこと……。私の指導力のなさで、選手の健康管理もできていなかったのです。大変反省している出来事の一つです。 

 

 都大会は順調に勝ち進み、準々決勝で延長13回、3時間半を戦い抜いた東葛西中学校との駒沢球場での一戦。実は特別延長に入って2イニング目の11回表、5点を取って勝ちを確信した場面がありました。しかし、その時興奮した私は、それまで佐渡の体力的な限界を感じて、どこで3年生のキャプテン、野中にピッチャーを代えようか悩んでいたのですが、点を取った勢いで「今日は俊太(佐渡)と心中だ!」とベンチで気合を入れてしまったのです。その時の佐渡の顔は今でも目に浮かぶもので、「先生、限界です……」という真っ赤な顔をしていました。しかし、そのまま佐渡を続投させ、5点を失い、さらに延長戦が続くことに……。結局延長13回まで戦って敗れました。5点とったところで野中に代えていたら……と今でも思うことがあります。佐渡だけでなく、野中とダブルキャプテンとしてキャッチャーを任せていた横山など、普段ひょうひょうとしている選手たちが、ベンチでぐったりしている姿は今も目に焼き付いていて、この試合の壮絶さは一生忘れられません。 

 

 しかし、その結果だけでなく、その時の消耗によって、新チームで佐渡のピッチングが低調になってしまいました。接骨院を営んでいる佐渡のお父さんとも相談して、しばらく投球を控えることにしました。 

 

 しかし、夏の練習試合や、夏の結果を受けて初めて推薦出場することになっていた軟式野球連盟の関東少年野球大会東京都大会の予選など、強豪校との試合がぎっしり詰まっていました。この予定の中で、佐渡を出場させないことには、チームとしては大変な苦労がありました。しかし、佐渡の一つ下の代は、「球童くん」で北原少年野球クラブの立石さんとの対談記事で取り上げていただいた時にお話しした北原出身の大村( 晃平 )など、学区外からも「八坂で野球がやりたい」と入ってきた力のある1年生がおり、佐渡抜きで様々な大会を2桁スコアの泥試合なども経験しながら勝ち抜きました。そして、佐渡にはキャプテンを託すことにしました。前年までは、新チームになってからは上級生の2年生でしばらく日替わりキャプテンをし、その様子を見て選手に投票し、キャプテンを決めていました。しかし、佐渡の代は、佐渡の力が抜きん出ており、「プレーで他の選手ができないことが佐渡にはできる分、キャプテンとしての苦労は佐渡にさせた方が、選手としても人間としても成長できるのではないか」と私は考えていました。塚本という1つ上の代から5番ショートで出ていたキャプテンシーのある同級生もいましたが、プレーの面で不安定なところがあり、自分のプレーのことで追い込まれてしまうのではないかと考えていたこともあり、日替わりキャプテンを例年通りさせながらも、佐渡には「キャプテンになる覚悟は決まったか?」と数日おきに聞いていたように思います。 

 

 最終的には佐渡から「キャプテンをやります」といったような言葉があり、キャプテンを任せました。新チームは、佐渡が出場していない時に、厳しい試合を勝ち抜いたことで力がつき、佐渡が9月に戦列に復帰すると、練馬区秋季大会を夏に続き連覇。都大会はベスト16で修徳学園に負けたものの、関東少年野球大会東京都大会(以下、関東少年)では3位に上り詰め、練馬区から児童生徒表彰というかたちで八坂中学校野球部が表彰されるまでになりました。関東少年では、雨天で順延が重なり、準々決勝、準決勝がダブルヘッダーとなりました。準々決勝に先発した佐渡は15三振の快投で相手を圧倒しましたが、佐渡に限らず、投手の故障を防ぐため、基本的に1日2試合を投げさせることはしていなかったので、準決勝は佐渡に投げさせず敗退しました。私自身も、佐渡も、チームも勝ちたい思いはあったと思いますが、これは正しい判断だったと思います。 

 

佐渡は前述した通り、大人しいタイプで、クラスメイトやチームメイトが面白い話をしていると、周りでずっとニコニコしています。ただ、キャプテンを任されてからは、私からの様々な細かい要求をチームに浸透させるために、誰よりも大きな声でチームを引っ張るようになりました。ただ、佐渡の代は試練も味わいました。グランド改修工事により、秋からグランドが使えなくなり、平日は目の前の八坂小学校のグランドを借り、休日は他校への遠征や保護者に協力してもらって練馬区や東京都のグランドを有償で借りて活動をしました。改修も3ヶ月と言われていたものが、5ヶ月程に伸び、練習環境を確保するのにも苦労しました。そんな中で忘れられないキャッチボールがあります。大泉中央公園野球場という場所を借りて冬場の午前中に練習していた時、いつものように選手のキャッチボールを後ろから見ていました。佐渡の後ろに立ち止まり、投げるボールを見たとき、50~60m程の距離でしたが、力感なく投げたボールが地面と並行に軌跡をたどり相手のミットに収まりました。ふと「こういう選手がプロにいくんだろうな」と思ったことを昨日のことのように記憶しています。 

 

 この年は東日本大震災もあり、グランドが使えないところから、野球ができない時期も味わいました。しかし、練馬区の春季大会に準優勝し、ブロック大会へ勝ち進みます。練馬区は準決・決勝をダブルヘッダーで戦うため、決勝は佐渡を先発させませんでした。相手の大泉二中も素晴らしい指導者(吉尾健先生)、選手がそろっており、決勝は敗れました。ただ、準優勝でブロック大会に進むと、またダブルヘッダーで2勝しないと都大会にはいけません。ブロック大会では、佐渡と相談をして、3年生になり体力もついてきているとのことで、2試合とも先発して、都大会出場を決めるという話になりました。そして有言実行、2試合投げ抜き都大会出場を決めました。選手の故障防止の観点からは、私の考えがブレてしまい、勝利を優先した判断は褒められたものではなかったかもしれません……。 

 

 春季都大会も順調に勝ち進み、準々決勝の上柚木球場。相手は今や東京都で上一色中学校と双璧の強豪、駿台学園中学校でした。実は、中体連の秋季東京都大会の2回戦、全国大会常連の修徳学園中学校と対戦して、1対3で敗れていたことの反省を生かそうと思って臨んだ試合でした。修徳は当時の私にとって雲の上の存在で、対戦できるだけで嬉しい存在でした。前年の都大会後、修徳の小野寺先生と交流をもたせていただき、2回練習試合をさせていただいたのですが、目指しているレベルというか、自分と小野寺先生の指導者としての力量の差が歴然としすぎていることが、試合をしていてはっきりわかっていました。それを埋めようと、修徳との試合前は自分自身異様に気合いが入りすぎ、八坂の選手にプレッシャーをかけてしまったことから、序盤にミスを連発して負けてしまったのです。試合を観ていた先生方からは、「八坂のピッチャーが今大会で1番いいと思っていたから、普通にできれば修徳にも勝てると思っていたけどね」ということを言われたのです。それくらい佐渡の評価が上がっている中で、チームとしても普段から厳しい練習をしていたので、自分たちの野球を普通にやろうという気持ちで、強豪駿台学園戦にも臨もうと考えていました。そして、佐渡をはじめ、選手は秋の反省を十分に生かし、延長9回まで0対0。特別延長戦も2回を戦い、最後は1点を相手にとられサヨナラ負けとなりました。駿台学園のピッチャーは、現在ヤクルトスワローズでセットアッパーとして大活躍している清水昇投手でした。その後の夏季大会で駿台学園は全国大会まで勝ち進み、中学生ながら140kmの速球を投げる投手として有名だった清水投手に全く引けをとらない投球を佐渡は見せていました。駿台学園の西村先生からは、配球やランナー3塁でのサインプレーに対する佐渡の対応力を大変褒めてくださいました。そして、会うたびに佐渡のことを気にかけてくださいました。 

 

 ただ、春季都大会をベスト8で終え、あと1勝で夏の都大会の推薦出場が決まるというところでの敗戦。すぐに夏の練馬区大会へ気持ちの切り替えが選手も私もうまくできず、私の指導力不足で夏は練馬区の準決勝で敗退し、都大会に出場することなく佐渡の中学校野球は終えることになりました。 

 

 7月初旬に、佐渡の担任でもあった私は12校の高校から野球推薦などの話がきていることを三者面談で伝えました。佐渡が入学してから、私は佐渡が進みたいと思った高校に行かせられるようにしなければいけない、という思いを強くもっていました。佐渡は文武両道に励む生徒であったので、中学軟式野球の生徒も活躍していて、実家からも通える日大二高がよいのではないかと思い、中学校野球部の顧問の先生や、幸い、私が母校の都立武蔵丘高校で助監督として公式戦のベンチに入った時に対戦した当時、都立昭和高校を率いていた現日大二高の監督、田中吉樹先生と少し面識もあったことで、1年生の頃から、日大二高には興味をもってもらっていました。2年の秋季都大会では、日大三中の松本先生とも名刺交換をし、以前記事にしていただきましたが、2月には日大三高の室内練習場で、日大三中との合同練習を行い、そこで、日大三高の小倉監督に「ぜひ佐渡くんに来て欲しい」とお誘いも受けていました。 

 

 佐渡は最終的に日大三高を進路に選びます。その年の夏の甲子園、圧倒的な強さで優勝した日大三高でしたが、佐渡は誘いを受けても二つ返事で「進学します」とは言いませんでした。全国制覇したばかりの学校から声がかかっていたら、中学生は舞い上がって「進学させてください」となっても不思議ではないのですが、本人は自分の目で、練習や練習環境を見たいとのことでした。甲子園出場が決まったことで、8月に予定していた見学は延期となり、9月の初旬に本人、保護者、私も新チームの試合の後に町田までかけつけて、練習や施設を見学させていただき、小倉監督ともゆっくり話をさせていただきました。そこで、小倉先生から「本人の気持ちもあると思うから、しっかり考えて返事をください」と言われたのです。全国制覇したばかりの監督が、中学生とその保護者、顧問に対して、これだけ謙虚に言葉をかけてくださるのか、と私自身も大変感激したことを覚えています。佐渡はそこから1週間程経った給食時間中、配膳を見守っている私のところに来て、「先生、決めました。日大三高にお世話になります」と言ってきたのです。すぐに日大三高の三木部長に連絡を入れ、日大三高に進学することになりました。 

 

 そこからは、勉強もしっかりしながら、スポーツ推薦を目指す同級生達とグランドに来て、自分の練習もしながらも、後輩達の練習の手伝いをよくしてくれました。ノックは私よりも上手で、佐渡にノックをよくお願いしていました。そんな中でも、私の携帯電話はこの時人生で1番よく鳴っていて、電話に出ると「〇〇高校野球部の〇〇です。佐渡君のことなのですが……」と、スポーツ推薦の話がひっきりなしにきました。その数は30校を超えました。お断りをするのですが、各高校の先生方も非常に丁寧に対応してくださり、その後、佐渡の後輩の進路につながる出会いにもなりました。 

 

 3月には卒業前に、卒業生と1、2年生の紅白戦をして、送別会をしました。最後に3年間の思いを作文にして保護者、部員の前で読ませました。その時の佐渡のことは今も忘れません。「11名いた部員が2人辞めてしまったけれど、中学から野球を始めた部員が、キャプテンとして厳しい声かけをしてきたのにも関わらず、3人辞めずに最後まで一緒に野球をしてくれた。それが嬉しかった。ありがとう。」と涙を流したのです。佐渡は比較的クールで、喜怒哀楽を激しく表すことは試合中もほとんどありません。淡々としています。佐渡の両親もそんな息子の様子にびっくりしていました。そして、野球だけではなく、「心が成長した」と喜んでくださいました。教員として部活動をやっていて、どんな結果を出すことよりも嬉しい言葉でした。  

[高校時代]

 

 高校入学後は、貴重な左腕として、甲子園練習にも帯同させていただくなど様々な場面でチャンスをもらっていたようです。日本一を勝ち取ったばかりの日大三高と、このようなご縁をいただいたことは、八坂中学校や八坂の地域にも還元したいと思い、日大三中との練習試合を定期的にお願いするようにしました。そして、保護者や小学生なども誘い、町田市の日大三まで遠征し、日大三中と練習試合をした後に、日大三高の練習や練習試合を見学させていただくことを続けました。見学に行ったときの練習試合に、小倉監督や三木部長が粋な計らいをしてくださり、八坂中学校の部員の前で佐渡が登板する様子を見せてくれることもありました。小倉監督も三木部長も、ご挨拶に行くと「佐渡、よくがんばっていますよ」と声をかけてくださいました。佐渡も寮生活を送っていますが、2週間に1度程のペースで実家に帰ってくることもあり、八坂のグランドに顔を出し、後輩達によく声をかけてくれました。当時明治大学野球部で活躍していた山崎福也選手(現オリックスバファローズ)は、同じ左腕ということで、日大三高に来たときはアドバイスをもらっていたようで、一塁への牽制球など、山崎選手から学んだことを八坂中の選手にも還元してくれ、八坂中は佐渡のおかげで高校・大学野球のトップレベルの技術や情報を学べる場にもなりました。そして部員を集合させて言ってくれる言葉は、「八坂でやっている練習は高校野球でも通用する練習だから、先生の指導をしっかり聴いてがんばってください。」というような内容です。その言葉に、生徒だけでなく、私自身も励まされました。

 佐渡は2年生の秋季大会から背番号をもらいベンチ入りをしました。それまでは上級生達が毎年甲子園に出場しており、佐渡自身も自分の代で、自分も試合に登板して甲子園に行きたいという気持ちを強くもっていました。佐渡の代の日大三高は、夏の甲子園制覇をした先輩達に憧れて入学してきた精鋭達です。投手も、釘宮光希選手(現・日本通運)、三輪昂平選手、安田颯選手、佐渡と4人の140km台を計測する強力投手陣でした。佐渡は釘宮選手、三輪選手に次ぐ存在に位置づけられておりました。秋の準決勝では、試合途中からチャンスをもらい登板しましたが、二松学舎大学付属相手に打たれ敗戦。その悔しさを晴らすべくトレーニングを積み、信頼を勝ち取って、春季東京都大会の準々決勝、日大鶴ヶ丘戦では先発のチャンスをつかみます。奇しくも相手の先発ピッチャーは、佐渡と同じ代で、中学時代、武蔵村山第一中学校で全国大会に出場した秋山翔選手(現・三菱自動車岡崎)でした。中学時代対戦したことはありませんでしたが、中体連野球部出身の投手が、互いに強豪私立に進み、大会の上位で投げ合うことは東京都中体連野球部の大きな励みにもなったと思います。試合は残念ながら佐渡が投げ負けて日大三高は敗戦してしまいました。

 夏の大会は、佐渡の代にとって最後の甲子園のチャンスでした。準決勝まで順調に勝ち進み、相手は現在プロで活躍する高橋優貴投手(現巨人)、勝俣翔貴選手(現オリックス)が活躍していた東海大菅生でした。私も八坂中で夏休みの練習をしながら、職員室のテレビを付けておき、休憩の度に試合経過をチェックしていました。佐渡は先発していませんでしたが、序盤から日大三高がリードしていたので、安心していましたが、試合中盤にテレビを観ると、佐渡が登板をしており、ピンチを迎えていました。そして、相手に打たれてしまい、敗戦してしまいました。佐渡の代は甲子園に行くことができませんでした。

 佐渡の代の日大三高投手陣は、釘宮選手、三輪選手が下級生の頃からベンチ入りし、甲子園メンバーにも選ばれていました。体も身長も170cm程と大柄ではなく、高校レベルでは身体の線も細い方からスタートした佐渡でしたが、地道な練習で、最後の1年間は強力投手陣の一角として活躍するまでになりました。日大三高の1つ下の後輩には、東京の中学校野球界をけん引する、上一色中学校の選手も入学していましたが、顧問の西尾先生にお会いすると「佐渡くん、地道に練習して着実に成長して結果を出しているから、上一色出身の選手達も尊敬していたよ」という声もかけていただきました。全国から腕自慢の猛者が集まる日大三高の中で、エースにはなれなかったものの、公式戦で登板するチャンスをもらえるまで信頼されるようになった佐渡の努力はきっと素晴らしいものがあったのだと思います。ただ、本人としては、エースになれなかった悔しさは非常に強かったとも思います。

 

 夏の東京都大会で敗退後も、佐渡は日大三高で練習を続けていました。プロや大学、社会人など、上のレベルを目指す選手がほとんどの野球部において、それは当然のことのようで、大学進学に向けて練習をしていました。3校程の大学からスカウトが声をかけてくださったようで、三木部長とじっくり相談をし、佐渡を1番欲しがっている大学だと判断して、首都大学2部リーグで上位争いをしている明星大学に進学することになりました。

[大学時代]

 

 日大三高の三木部長から後に聞いたのですが、明星大学のスカウトの方には、佐渡を早い時期から評価してもらっていたとのことでした。ぜひチームに加わって欲しい選手だったということは、1年生の時からチャンスをもらい登板することに表れていました。そして、チームの2学年先輩には、明星大学野球部初のプロ野球選手で、現在読売ジャイアンツのリードオフマンとして大活躍中の松原聖弥選手、楽天イーグルスに育成2位指名を受けた南要輔選手(4年間在籍後引退)がおり、佐渡の2年時には見事2部優勝、入れ替え戦にも勝利し1部昇格を実現させました。佐渡も2年生からは先発陣の一角として活躍しており、1部で戦う3年時には140kmを超えるキレの良いストレートと、空振りのとれるスライダーを武器にエース格として成長していました。

 迎えた1部での戦い。東海大、日体大、筑波大、桜美林大などの強豪を相手に堂々たるピッチングを見せました。日体大には後に西武ライオンズからドラフト1位指名を受けて、現在先発陣の一角として大活躍をしている松本航投手、千葉ロッテマリーンズからドラフト2位指名された東妻勇輔投手がおりましたが、チームとしてはなかなか勝利できなかったものの、1点を争う堂々の投げ合いを演じていました。また、日大三高時代の1年先輩で、高校時代にエースとして2年連続チームを甲子園に導いた、佐渡にとっては憧れの先輩である筑波大のエース、大場遼太郎投手(現ENEOS)と先発として互いに投げ合うことも実現しました。私も当日サーティフォー相模原球場に観戦に行きましたが、見事佐渡は大場投手に投げ勝ちました。本人も尊敬する先輩に投げ勝ち、自信をもった試合だったと思います。1部に在籍したのは、この3年時の1年間だけでしたが、防御率ランキングでは春に1.34でトップ5に入るなど、その実力は大学野球のトップクラスであることを証明しました。そして、プロ入りした松原選手や南選手の影響もあってか、NPBのスカウトの方も佐渡をチェックしていたようで、観戦に行くと佐渡のお父さんからは「今日はスカウトの方が来ていたみたいで」という言葉をかけられたこともありました。

 4年時は再び2部リーグでの戦いとなりました。秋のリーグ戦に優勝し、1部昇格をかけた武蔵大との入れ替え戦には再びドラマが待っていました。中学校時代に都大会準々決勝で駿台学園の清水昇投手(現ヤクルトスワローズ)と延長11回を投げ合った八王子の上柚木公園球場を舞台に、相手の先発投手は高校時代に日大鶴ヶ丘高校のエースとして、春の東京都大会準々決勝で投げ合った秋山翔投手(現・三菱自動車岡崎)でした。私も佐渡にとって大学生活最後の試合になるこの試合をバックネット裏から見守りました。試合は緊張感からか、序盤に佐渡が点をとられ敗戦。1部昇格を後輩にプレゼントすることができず、大学野球生活を終えました。

 試合終了後、球場の外で待っていると、明星大学野球部の最後のミーティングが行われていました。保護者や応援に来た方々を含めて大きな輪で行われていたミーティングでした。佐渡の表情を見ると、感情の高ぶりを抑えているようで悔しさが伝わってきました。それと同時に、試合中も「俊太!俊太!」と仲間から常に声をかけてもらい、エースとして重要な役割を任されたチームに対する深い思いがひしひしと伝わってきました。高校時代には経験できなかった「エース」としての役割を、大学野球で再び味わうことができたことは佐渡の大きな自信になったと思います。これも佐渡の地道な努力と、穏やかで周囲に愛される人柄、そして日大三高の小倉監督、三木部長の進路指導、明星大学の指導者の方々の指導など、本人の人間的な魅力と、周囲の方々の力強い支えがあったからこそだと感じます。日大三高の三木部長には、お会いした時に「佐渡にはプロにいってもらわないと」と声をかけていただきました。また、私が球場に応援に行くと、必ず佐渡のご両親や親戚の方々も応援に来ていました。観戦中に、接骨院を営む佐渡の父親は肩こりがある私にマッサージをしてくれたり、帰りに佐渡の父親が運転する車で駅まで送っていただいたりと、本当に温かいお人柄で、「このご両親があって佐渡あり」という言葉がピッタリの家庭でした。中学生時代から変わらず、両親の愛情のこもった力強いサポートもあって、佐渡は一歩一歩成長していったのだと思います。

 

 しかし進路についてはなかなか決まりませんでした。社会人野球の練習にも参加したようですが、最終的にはプロ志望届けを出しました。インターネットニュースにも紹介され、私も期待しましたがドラフト指名はされませんでした。心配していましたが、独立リーグ(BCリーグ)の信濃グランセローズにお世話になると連絡をもらいました。NPBのプロ野球選手に向けて挑戦が始まりました。 

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[信濃グランセローズ]

 

 信濃グランセローズは、長野県を拠点とするBCリーグのチームです。私自身が母の故郷である長野県生まれであり、ここで佐渡が野球をするということに少なからず縁を感じました。

 公式戦が始まると、インターネットサイトで試合経過を確認します。デビュー当初は打たれることもありましたが、早い段階で完封勝利をあげるなど、順調に先発陣の一角として活躍し始めます。そして1年目のシーズンは7勝4敗、防御率2.14の成績を収めました。

 チームが地区優勝を決めると、リーグチャンピオンシップでは、NPBで主力として活躍した選手が多く在籍する栃木ゴールデンブレーブスと対戦しました。ここでメジャーリーグにも挑戦し、ロッテ、阪神でも活躍した西岡剛選手とも対戦します。チームが苦戦する中でも、佐渡は素晴らしいピッチングを見せました。優勝は逃しましたが、BCリーグでも注目される投手に成長しました。ただ、この年もNPBのドラフト指名はありませんでした。

 そんな中でも、12月に開催している、中学校の野球大会、「V9黒江透修中学校野球大会」に、個人賞としてプレゼントする副賞を用意することに佐渡は協力してくれました。佐渡と、佐渡に活躍の場を与えてくれている信濃グランセローズに応援と感謝の気持ちを伝えたい。そして、大会に参加する中学生たちには、この大会で活躍した選手が、NPBのプロ野球選手を目指してがんばっているという夢を与えたい。そんな思いが私にはありました。大会には信濃グランセローズのネックウォーマーを参加チーム分用意することができました。もらった選手たちは大変喜んでおりました。この取り組みは昨年も続けることができました。

 

2年目は開幕投手を任され、チームのエース格として活躍しました。夏にはBCリーグ選抜とヤクルトスワローズ2軍の試合が組まれていました。この試合、相手先発はドラフト1位で大注目の中入団し、2年目を迎えていた奥川(恭伸)投手(石川・宇ノ気中出身で2016年全中優勝エース)でした。そして、その相手としてBCリーグの先発を任されたのが佐渡でした。佐渡は1回を無失点で抑え、持ち前のコントロールの良さを発揮しました。インターネットサイトにも紹介され、BCリーグ全体の中でも佐渡の実力が認められ、NPBへ送り出したいというチームやリーグの思いがあったと思います。

 

 ただ、後半戦に入りやや失速し、8勝4敗、防御率3.14という成績で、この年もNPB入りを逃します。チームメイトだった赤羽選手、松井捕手がヤクルトスワローズから育成2、3位指名を受けており、NPBのスカウトにも、もちろん佐渡を見てもらう機会はあったと思います。悔しい思いだったと思います。 

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 そして3年目を迎える今シーズン。信濃グランセローズの協賛をしている信濃毎日新聞の記事を紹介します。


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 鍛錬重ね 最後まで全力投球

 左のエース 佐渡俊太

 NPB入りするために完全燃焼を誓う

 

「ラストチャンスだと思って一日一日を大切にやっていきたい」…中略…昨季限りでの引退もよぎったが、「多くの方々が『もう一年挑戦してみないか』と背中を押してくれた」。翻意をして現役続行の意思を固めると、柳沢監督から早い段階で投手陣のリーダーに任命された。

持ち味は制球力。……NPB入りするためには秀でた武器が必要だと痛感しており、「空振りがとれる絶対的なボールを身に付けたい」と曲がりの大きいスライダーに磨きをかけてきた。

好結果を残すことが大前提となる今季は、リーグ戦2桁勝利と防御率2点台前半を狙う。その上で「アピールできる場は、しっかりアピールしたい」と強調。……「感覚は悪くない。とにかく後悔だけはしたくないし、最後までやりきりたい」と夢をつかむために完全燃焼を誓った。
 

[2021年 4月7日 信濃毎日新聞]  

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 この記事を読み、本人の今年にかける悲壮な覚悟と、「引退」を意識したという言葉に、私も心が揺さぶられるものがありました。身体は決して大きくありません。ただ、日大三高、明星大学、信濃グランセローズと、地道に努力し、一歩一歩結果を出して必ずチームからの信頼を得てきた佐渡。だからこそ、さらに高いレベルのステージで切磋琢磨することでまた着実に成長していき、チームの力になれる投手になれる気がしてならないのです。

 今シーズンは新たに加入した投手に開幕投手を譲りました。しかし、救援投手として開幕戦で好投し、その後先発として8連勝。防御率や勝利数、奪三振や投球回などのランキングでトップ争いをし、2ヶ月連続の地区投手部門MVPを受賞するなど、結果でチームの信頼を勝ち取り、エースとして大車輪の働きをしました。後半戦は台風や対戦チームにコロナ感染者が出たことによる試合中止のため、登板数が減ってしまいましたが、9勝2敗でリーグの勝利数ランキング4位、奪三振も5位(中地区では奪三振王のタイトル獲得)と、エースとしてチームのプレーオフ進出に大きく貢献しました。

 プレーオフ準決勝では初戦に先発、2戦目にも2番手として登板するなど、気迫あふれるピッチングを見せてくれました。残念ながらプレーオフでは敗れてしまいましたが、抜群の制球力と、9回を完投するスタミナ。そして磨きをかけた空振りのとれるスライダーを武器に、昨年の反省を生かし、後半戦でも145km前後のストレートで勝負できる場面が増えたことは大きな成長だったと思います。

 試合前には、胸郭や肩甲骨の可動域を広げるストレッチ、メディシンボールを使ったトレーニングなど、NPBの選手も取り入れている最新のトレーニングに黙々と取り組み、最大限の準備をして試合に臨む姿がありました。今年読売ジャイアンツのビエイラ投手は今年クローザーとして活躍していますが、オールスターの試合前もトレーニングで自分を追い込む練習熱心さが話題となりました。佐渡についても、そのような自分を律し続ける強さがあり、研究熱心さがあります。それは今後のさらなる成長に必ずつながるはずです。

 

 信濃毎日新聞の記事にあった「アピールできる場は、しっかりアピールしたい」この言葉は当時、7月24、25日に予定されていた、読売ジャイアンツ3軍との試合を意識している部分もあったと思いますが、ローテーションの関係で登板はありませんでした。しかし、シーズン終了後の9月24日、BCリーグ選抜の一員として、読売ジャイアンツ3軍との試合に臨み、1回を無失点に抑えました。プレーオフの登板から4日後でしたが、最後のアピールを力一杯してくれたことと思います。

自分を信じて、佐渡自身と、佐渡と共に野球をしてきた仲間、支えてくれた方々の夢を掴み取ってほしいです。
 そして、何より佐渡がマウンドで活躍する姿をもっともっと応援したい。
 そんな思いでいっぱいです。 

(この稿は終了。佐渡俊太物語はこれからも、つづく)